イスラム王朝への転身とは? わかりやすく解説

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イスラム王朝への転身

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 21:49 UTC 版)

イルハン朝」の記事における「イスラム王朝への転身」の解説

1295年アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥ殺したバイドゥ倒し第7代ハン即位したガザンハン奪取にあたって仏教からイスラム教改宗したが、これによってイラン国内モンゴル諸部族にも増えつつあったムスリム支援受けて即位したため、イラン在住各部族がこれに従ってイルハン朝イスラム化果たしたガザンは自ら「イスラム帝王パードシャー)」(Pādshāh-i Islām)を名乗り、この称号オルジェイトゥアブー・サイードにも受継がれた。ガザン祖父アバカ仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒典医ラシードゥッディーン宰相登用すると、税制については、従来モンゴルイラン支配始まってから徴発濫発されていた臨時課税基本的に一時中断し、諸々年貢通常イラン徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀粛正した。イスラム王朝伝統地租ハラージュ税制改正させ、部族将軍たちに与えていた恩給国有地徴税授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界在来制度適合した王朝へと転身する努力払いイルハン朝復興させた。 さらにガザンは、政権中枢の政策決定与る諸部族とそれを率い武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティー回復するため、自らの知るモンゴル諸部族歴史ラシードゥッディーン口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書古老証言参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。この編纂事業によって各部族チンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつき再認識させることを図ったのであるパレスチナ戦線 (1299年1300年)及びマージ・アル・サファー戦いでマムルーク朝敗れ以降マムルーク朝によるシリア支配確定したガザンは「サイイドたちの館(ダールッスィヤーダ)」と呼ばれる預言者ムハンマドやカリフ・アリーの後裔であるサイイドたちのための宿泊施設各地建設し、また各地モスクマドラサその他宗教・公共施設建設改修ワクフ物件設定が行われた。

※この「イスラム王朝への転身」の解説は、「イルハン朝」の解説の一部です。
「イスラム王朝への転身」を含む「イルハン朝」の記事については、「イルハン朝」の概要を参照ください。

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