イザベラのクーデタ
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「イザベラ・オブ・フランス」の記事における「イザベラのクーデタ」の解説
1325年、兄のフランス王シャルル4世にエドワード2世に代わって臣従の礼をとるため、皇太子エドワード(後のエドワード3世)とともに渡仏した。イザベラはフランスに亡命していた第3代モーティマー男爵(英語版)ロジャー・モーティマーと愛人関係になり、ディスペンサー親子に追放されてフランスに逃れていた諸侯達と王権の転覆策を練った。エドワード2世に帰国を拒否する手紙を書くと、フランドルのエノー伯ギヨーム1世の元を訪れ、ギヨーム1世の娘フィリッパを皇太子妃とすること認める代わりにイングランド遠征の援助を獲得した。 1326年9月24日、約700人から成る反乱軍は東部サフォークへ上陸した。彼らはイングランド各地で歓迎され、反乱軍は約1か月で国内を制圧した。国王と宮廷派の主要人物は逮捕され、エドワード2世はランカスター伯ヘンリーへ身柄を預けられたが、他はディスペンサーの息子を除きその場で斬殺された(ディスペンサーの息子も裁判の末に処刑)。 翌1327年1月、王の召還を経ず、出席もしない議会でエドワード2世の廃位が議決され、皇太子エドワードが後継者に選ばれた。一種の民衆集会による廃位の手続きが取られたことは王国の諸身分の代表を通じて表明される国民の総意は王位すら左右できることの前例となった点でイギリス立憲主義に大きな意義があった。 皇太子は当時15歳だったが、即位の経緯に危うさを感じ、父から正式な譲位がなければ王位継承はしないと返答し、そのため議会は1月20日にエドワード2世から譲位の文書を取り、それを確認した後にエドワード3世として即位した。 またエドワード2世を救出する企図が二度あったため、その生存を危険視したイザベラの示唆によりエドワード2世は獄中で秘密裏に殺害された。
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