アレクサンドル3世の近代化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 17:59 UTC 版)
「露仏同盟」の記事における「アレクサンドル3世の近代化」の解説
アレクサンドル3世はオスマン債務管理局の開設年に即位した。彼の治世とその前後にベルギー資本が動いた。先代のアレクサンドル2世はサンクトペテルブルクでポーランド人に殺された。 そのときすでにプラハでコッカリル系のワルシャワ製鋼(Towarzystwo Warszawskiej Fabryki Stali)が正式認可を受けていた。1888年ともなると、コッカリル本社がクリヴォイログの鉄鉱山に進出、ワルシャワ製鋼と合弁で南ロシア製鉄株式会社を設立した。コッカリルは1894年にアルマズナイヤ炭鉱を、1895年にはニコライエフ造船所を設立した。これらの生産力は親会社に匹敵し、高配当をもたらした。うらやましくなったソジェンもロシア資本と提携して1895年にロシア・ベルギー製鉄を設立した。この世紀末にベルギーの産業資本が次々とロシアへ進出したが、1900-1901年の恐慌で大きな損失を被った。これらの救済融資はサンクトペテルブルクへ進出していたフランスの大銀行が行ったので、やはりメインバンクの支配下となった。 露仏同盟は露清銀行を代表とする外資の呼び水となった。1891年より建設に着手するシベリア鉄道等、ロシア企業へ巨額の外資、特にベルギー資本が流入した。債権を除いた国別外国投資をフランス・イギリス・ドイツ・ベルギーの順に100万ルーブル単位で記す。1890年は61.4、29.8、68.8、17.1であった。それが1900年に210.1、102.8、197.4、220.1となった。この1900年、ロシアの銀行の総資本に占める外資の割合は28.3%に達していた。それから第一次世界大戦勃発まで、フランスからの国別対外投資額はロシアが断然首位であって、2-4位のスペイン・オーストリア・オスマン帝国への3カ国投資額合計が1902年でロシアを少し越えていたのが、1914年わずかに届かなくなった。1890年から1912年の統計によると、フランスは好況下のロシアには民間投資をし、不況下のロシアには一層の巨額を公債に投じた。不断に投下された資本はロシア革命で回収が問題となってシベリア出兵に発展した。
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