アルフレッド=マーシャルとは? わかりやすく解説

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マーシャル【Alfred Marshall】


アルフレッド・マーシャル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/20 09:52 UTC 版)

アルフレッド・マーシャル
新古典派経済学(ケンブリッジ学派)
生誕 (1842-07-26) 1842年7月26日
死没 (1924-07-13) 1924年7月13日(81歳没)
影響を
受けた人物
レオン・ワルラス
ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ
ヴィルフレド・パレート
ジュール・デュピュイ
影響を
与えた人物
ジョン・メイナード・ケインズ
アーサー・セシル・ピグー
実績 一般均衡理論における価格と需要の変動分析
貨幣数量説への貢献(マーシャルの k
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アルフレッド・マーシャル英語: Alfred Marshall1842年7月26日 - 1924年7月13日)は、イギリス経済学者新古典派経済学を代表する研究者。ケンブリッジ大学教授を務め、ケインズピグーを育て、ケンブリッジ学派 (新古典派)を形成し、同大学の経済学科の独立にも尽力した。

主著『経済学原理』("Principles of Economics", 1890年)では需要と供給の理論、すなわち限界効用と生産費用の首尾一貫した理論を束ね合わせた。この本は長い間、イギリスで最も良く使われる経済学の教科書となった。マーシャルの『経済学原理』は、スミスの『国富論』、リカードの『経済学および課税の原理』、マルクスの『資本論』、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』とともに経済学の五大古典とされる[1]

経歴

マーシャルは、1842年ロンドンのベルモンジー (Bermondsey) で生まれた。ロンドン郊外のクラパン (Clapham) で成長し Merchant Taylor's School で教育を受け、そこで数学に対する素質を現した。父は息子に聖職者となることを望んでいたものの、マーシャル自身は数学研究を志し、ケンブリッジ大学への合格で彼に学問の道を取らせた。

ジョン・スチュアート・ミルの著作を読むことによって、社会正義を主張したミルに共鳴し、人間の内面的な幸福・豊かな生活を得るためどうすればよいかということを考えるようになった[2]。また、ロンドンの貧民街を自分の目で見たことにより、人々を貧困から救済したいという使命感から、経済学の研究へ転向した[2]

1868年道徳科学担当の講師に任命され、更にケンブリッジに創設された w:Newnham College, Cambridge(女性向けカレッジ)において経済学の講師となった。その傍ら、経済学の数学的厳密さについての研究を進め経済学をより科学的なものにする様努める。

1877年にカレッジでの教え子だったメアリ・ペイリーと結婚するが、フェローの独身規定によって退職を余儀なくされ、ブリストルに新設された University College で校長となって、そこで再び経済学の講義を行った。

1870年代にマーシャルは国際貿易と保護主義の問題点に関して何冊かリーフレットを著したが、1879年にこれらの著作の多くをまとめて『外国貿易の純粋理論: 国内価値の純粋理論』[3]を公刊。

同じく1879年、妻と共に『産業経済学』("The Economics of Industry" ) を公刊、洗練された理論的基礎に立脚していたこの本はそれまで支配的であったジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』に代わる地位を得、毎年のごとく増刷された。 マーシャルはこの著作によって大きな名声を得、1882年ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが死去すると、彼の時代において英国を代表する経済学者となった。

マーシャルはヘンリー・フォーセットが死去すると、1884年12月にケンブリッジ大学の政治経済学教授に選出され翌年の1885年1月にケンブリッジへ戻り、2月には教授就任講演を行った。 ケンブリッジでは、経済学のための新しい学科の創設に努力し、1903年にようやく実現した。この時まで、経済学は歴史と道徳科学の学士課程の下で教えられており、経済学に精力的で専門化された学生達がマーシャルが望むようには育ちにくかった。

マーシャルは1881年、彼の畢生の著作、『経済学原理』の著作に取り掛かり、それからの10年の多くをこの著作の完成のために費やした。その著作についての計画は徐々に拡張され、経済学の全体系を含む別の二巻本として公刊されることになる。 第一巻は1890年に出版され、世界的な喝采を受けて、彼の時代における主要な経済学者の一人としての地位を確立した。 第二巻では外国貿易、貨幣、貿易変動、課税、および集産主義が取り上げられる予定で、第一巻を刊行してから20年以上、彼は『経済学原理』の第二巻の完成に精力を傾けた。だが、細部に対しても妥協なく注意を払う完全主義的性格が災いし[注釈 1]、未完に終わった。

彼の健康問題は1880年代から徐々に悪化し、1908年には彼は教授職を自発的に退き、後任教授にピグーが選出されるように奔走した。彼は『経済学原理』の著作を続けることを望んだが、彼の健康は悪化し続け、計画は個々の更なる研究によって増大し続けた。

1914年第一次世界大戦の勃発は彼に国際経済の診断を改訂するよう促し、1919年に彼は『産業貿易論』[注釈 2]を77歳にして出版した。この著作はより理論的な『経済学原理』に比べてより実証的なものであり、そのため理論経済学者達から同様の喝采を引き付けることはできなかった。

死去する前年の1923年には『貨幣・信用及び商業』("Money, Credit, and Commerce" ) を出版した。これは、過去半世紀に亘って出版したものと、出版しなかった経済学的着想を含んだものである。

マーシャルはケンブリッジの自宅である Balliol Croft で、1924年7月13日に81歳で死去した。

業績

マーシャルの経済学では、ミクロの価格理論などの分析手法を用いて、労働者の低賃金を高くする、或いは過酷な労働を和らげることを目標とした[4]

マーシャルの経済学はジョン・スチュアート・ミルアダム・スミス、およびデヴィッド・リカードの著作の拡張だった。彼はヴィルフレド・パレートジュール・デュプイのような、他の経済学者の彼の著作への寄与を軽視し、彼自身に対するウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズの影響を渋々認めただけだった。

経済思想の歴史におけるマーシャルの影響は否定し難い。彼は、供給と需要の関数に対する価格決定について厳格に取り組んだ最初の経済学者であり、近代経済学者は価格のシフトと需給曲線のシフトの間の関係の解明をマーシャルに負っている。マーシャルは「限界革命」の重要な参与者であり、「消費者が各々の限界効用に対して同じ価格となるように試みる」という着想は、彼のもう一つの貢献である。

生産者余剰と消費者余剰

需要の価格弾力性は、これらの着想の拡張として、マーシャルによって初めて明瞭に概念化されたものである。生産者余剰消費者余剰に分配された経済福利は、マーシャルによる貢献であり、実際、2つは時折「マーシャルの余剰」と評される。彼はこの余剰の着想を、課税と価格シフトが市場福利に与える影響の厳格な分析に用いた。 ただし晩年のマーシャルは、効用の加測性を前提としたこの概念の現実適用性には消極的な態度をとった。彼はまた、準地代を識別した。

マーシャルのkと所得流通速度

Elements of economics of industry, 1892

貨幣数量説におけるフィッシャーの交換方程式

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