アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの反乱
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「ヤズィード1世」の記事における「アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの反乱」の解説
詳細は「アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル」、「ハッラの戦い」、および「メッカ包囲戦 (683年)」を参照 フサインの死後、ヤズィードは自分を権力の座から追放すると公言していたイブン・アッ=ズバイルから増して行く反発に直面した。イブン・アッ=ズバイルは公には新しいカリフを選出するためのシューラーの開催を要求していたが、一方では秘密裏に自分の支持者たちに対して忠誠を誓わせていた。当初ヤズィードは和解に達しようと下賜品や使節団を送ってイブン・アッ=ズバイルを懐柔しようとした。しかし、イブン・アッ=ズバイルはヤズィードの承認を拒否し、これに対してヤズィードはイブン・アッ=ズバイルを拘束するためにイブン・アッ=ズバイルとは疎遠な関係にあった兄弟のアムルが率いる部隊を派遣した。戦いはアムルの軍が敗北し、アムルは捕虜となって処刑された。マディーナではイブン・アッ=ズバイルの影響力が高まり、一方でマディーナの住民はウマイヤ朝による支配と政府の歳入を増やすために実行された土地の没収を含むムアーウィヤの農業政策に幻滅していた。 ヤズィードはマディーナの有力者をダマスクスに招き、下賜品を与えることで招待した使節団を取り込もうとした。しかし使節団はこのような行為を受け入れず、マディーナに戻ると住民にヤズィードの贅沢な暮らしぶりについて語った。そして飲酒、猟犬を使った狩り、音楽への傾倒といった行為を非難した。マディーナの住民はアブドゥッラー・ブン・ハンザラ(英語版)の指導の下でヤズィードへの忠誠を放棄し、マディーナの総督でヤズィードの従兄弟にあたるウスマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アビー・スフヤーン(英語版)とマディーナに住むウマイヤ家の一族を追放した。これに対してヤズィードはヒジャーズを再征服するためにムスリム・ブン・ウクバが率いる総勢12,000人の軍隊を派遣した。何度かの交渉が失敗に終わった後、マディーナの住民はハッラの戦いでヤズィードが派遣した軍隊に敗北した。アブー・ミフナフと歴史家のサムフーディー(英語版)(1533年没)はマディーナが戦闘後に略奪を受けたと説明しているものの、歴史家のアワーナ・ブン・アル=ハカム(英語版)(764年没)は反乱の首謀者たちが処刑されただけであったと述べている。ヤズィードの軍隊は反乱を起こした者たちに対して再度忠誠の誓いを強要するとイブン・アッ=ズバイルの勢力を制圧するためにメッカへ向かった。メッカへの道中でムスリム・ブン・ウクバが死去し、フサイン・ブン・ヌマイルが指揮を引き継いだ。フサイン・ブン・ヌマイルは683年9月にメッカを包囲した。包囲は数週間にわたって続き、その間にメッカのモスクの中心に位置するイスラーム教徒の聖なる神殿であるカアバが炎上する事件が発生した。しかし、683年11月にヤズィードが急死したために軍事作戦は打ち切られ、フサイン・ブン・ヌマイルは自軍とともにシリアへ撤退した。
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