アナウンサーに復職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 23:05 UTC 版)
東京へ戻ったのち、日本放送協会(NHK)への入局を望むが、定員超過という事情で叶わず、しばらくは東京・神田小川町で、友人と共同出資して輸入食料品店「ひつじ屋」を開業し、進駐軍物資の横流しで生計を立てた。 アナウンサーとして復帰するにあたり、ラジオ東京(のちのTBSラジオ)と京都放送(のちのKBS京都)から誘いを受けていたが、当時開局を控えていた京都放送にチーフアナウンサーとして1951年10月入社。同局ではニュース、スポーツ中継の担当アナウンサーとして活動したほか、翌1952年には民放初の本格的DJ番組とされる『アルファベット・ジャズ』を担当。1953年には愛媛県のラジオ南海(RNB)に出向し、第8回国民体育大会(四国国体)中継と、開局間もない期間のアナウンススタッフ養成に携わった。同局の開局第一声及び開局日のニュースも担当している。 1954年7月、ニッポン放送の深夜部門担当の子会社・株式会社深夜放送に入社し、『深夜のDJ』という番組を担当。なお、1954年7月15日のニッポン放送開局第一声「ただいまから開局いたします」は、糸居によるものである。1959年10月からは『オールナイトニッポン』の前身番組『オールナイトジョッキー』を担当。1963年2月の同番組において、ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を日本で最初にオンエアしている。
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