アッピウス・クラウディウス・クラッスス独裁官に就任
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「ローマ・ヘルニキ戦争」の記事における「アッピウス・クラウディウス・クラッスス独裁官に就任」の解説
もう一人の執政官であるクィントゥス・セルウィリウス・アハラ(パトリキ)は、アッピウス・クラウディウス・クラッススを独裁官に任命した。クラッススが到着するまで、軍の指揮はレガトゥス(副司令官)のガイウス・スルピキウス・ペティクスが引き継いだ。ヘルニキ軍はローマ軍野営地を包囲していたが、ペティクスは出撃してこれを撤退させた。クラッススが新たな軍を率いて到着すると、ローマ軍の兵力は倍増した。ヘルニキは全兵力を集め、その中から3,200人の精鋭部隊を抽出した。ローマ軍とヘルニキ軍は、幅2マイルの平原の両端に野営地を設営しており、戦闘はその中間で行われた。ローマ騎兵は通常の戦術では敵の戦列を崩せないと判断し、下馬して歩兵として突撃した。彼らを迎え撃ったのはヘルニキの精鋭部隊であった。激しい戦いとなったが、最後にはローマ騎兵がヘルニキ兵を撃退した。翌日、占いにおいて吉兆が得られなかったためローマ軍の出撃は遅れ、日が暮れるまでにヘルニキ軍野営地を占領することができなかった。しかし、その夜にヘルニキ軍は野営地を捨てて撤退した。ヘルニキ兵が撤退するのを見て、シグニア(現在のセーニ)の住民も脱出した。ローマ軍の損害も甚大であった。全兵力の1/4を失い、相当の数の騎兵も戦死した。 この戦いに関するリウィウスの誇張された記述は、実際の信頼性の高い資料に基づいた部分は少ないと思われる。プレブス出身の最初の執政官による軍の指揮と敗北、それに続くパトリキであるクラッススの独裁官就任と勝利は、当時のパトリキとプレブスの不和を反映している。このエピソードの文学的性質と、凱旋式のファスティにクラッススの名前がないことから、歴史学者の中にはクラッススの独裁官就任そのものを疑うものもいる。但しオークレー(1996)は、これらは決定的な証拠とは言えず、紀元前362年のローマのヘルニキに対する勝利は歴史的事実であり、おそらくクラッススの独裁官就任もシグニアの関与も同様であるとしている。
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