アダチ龍光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/20 02:29 UTC 版)
アダチ
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本名 | 中川 一 |
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生年月日 | 1896年7月20日 |
没年月日 | 1982年10月13日(86歳没) |
出身地 | ![]() |
師匠 | 木村マリニー |
弟子 | アサダ二世 |
名跡 | 1.アダチ荘一 (1920年 - 1922年) 2.アダチ龍光 (1922年 - 1982年) |
活動期間 | 1920年 - 1982年 |
活動内容 | 奇術師 |
所属 | 落語協会 日本奇術協会第4代・第6代会長 東京演芸協会第3代会長 |
備考 | |
日本奇術協会第4代・第6代会長 東京演芸協会第3代会長 |
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アダチ 龍光(アダチ りゅうこう、本名:中川 一[1]、1896年7月20日 - 1982年10月13日[1])は、日本の奇術師。生前は落語協会所属。日本奇術協会第4代・第6代会長、東京演芸協会第3代会長を歴任。
経歴
新潟県蒲原郡両鹿瀬村の曹洞宗の寺院に生まれた[1]。18歳で上京し、岩倉鉄道学校中退後、新派の役者修業をしていたが[1]、映画の活動弁士を志し、1920年(大正9年)、大阪へ渡って木村紅葉(本名:木村荘六。木村荘平の六男)に入門し、アダチ荘一を名乗った。ところが紅葉が奇術師に転向し、木村マリニー(木村マリーニ)と改名したため、マリニー、マリニーの妻、荘一の3人で一座を組み、奇術の巡業を開始することとなった[2]。
1922年(大正11年)、アダチ龍光に改名した。東京・大阪の寄席に出つつ、初代江戸家猫八の一座に帯同し、声帯模写を学ぶ[2]。この時期に「擬声漫談」と称する一人話芸も行なっており、SPレコード2枚(擬声漫談「四季の風景(上)(下)」)を録音している[3]。1930年代に吉本興業の専属になる。
戦後は故郷の新潟に戻っていたが、営業でやって来た芸人仲間と再会して復帰を誘われ、みたび上京。落語協会に所属する。1966年(昭和41年)に芸術祭奨励賞受賞[1]。同年から日本奇術協会会長を務めた[1]。1971年(昭和46年)には昭和天皇の古希祝いとして、皇居で奇術を披露している[1][2]。
1979年(昭和54年)、脳内出血で倒れるが、1年後には復帰。『花王名人劇場』(関西テレビ)に出演した。1982年(昭和57年)10月13日に急性心不全のため86歳で没した[1]。戒名は龍光一道信士[2]。
芸風
タキシード姿で、新潟訛り[1]ながら活弁、声帯模写、漫談をバックボーンとした軽妙な語り口を交えつつマジックを披露し、人気を博した。初代猫八譲りのウグイスなどの動物の鳴き真似でも知られた。
弟子
- アダチ龍一
- アサダ二世
著書
- 『誰れでも出来る『手品と奇術』(米倉健編・龍光監修 、八千代書院 1956年)
- 『マジック入門』(鶴書房 1972年・1977年)
脚注
出典
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- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会・共編『古今東西落語家事典』(平凡社、ISBN 458212612X)
外部リンク
- アダチ龍光さんのこと/奇術師 アダチ龍光 年表wiki - 親族(大甥)による経歴再調査・文献集成。
アダチ龍光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:42 UTC 版)
手品師のアダチ龍光については、マジシャンとしての技術もさることながら、社会現象に対するリアクションとセンス、それを喋る話芸のすべてが素晴らしく、寄席演芸の最高の芸人と評価した。高座でも「アダチ龍光にヒザ替りをつとめてもらうことが、私の名誉であり、真打の格だ」「引田天功がどう華麗に鳩を出そうが、アダチ龍光の芸には敵わない」と褒めちぎるほど、惚れるだけ惚れまくった芸人だったと述べていた。
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