アストラハンへの流刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 03:05 UTC 版)
「ナリマン・ナリマノフ」の記事における「アストラハンへの流刑」の解説
チフリスの病院で働いていたころの1909年、警察の家宅捜索によってナリマノフ宅から数々の反君主制文書が発見された。ナリマノフは逮捕されメテヒ(英語版)刑務所へ収監されたが、彼の逮捕は幅広い民衆の抗議を引き起こした。様々な新聞――『バクー』紙の8月30日の記事、『ザカフカース』紙の9月3日の記事、『タラッカ』紙の10月17日の記事――などで、ナリマノフの逮捕についてが掲載された。ドゥーマでのナリマノフ釈放請願を含む、ナリマノフ釈放要求や請願書が公開された。詩人アリ・ナズミ(アゼルバイジャン語版)は風刺詩「私は怖い」でナリマノフの逮捕に抗議した。 8月、ナリマン・ナリマノフはアストラハンへ5年間の国内追放が宣告された。 この際にアストラハンの流刑地で、ナリマノフは後にバクー・コミューンで協働するステパン・シャウミャンやアリョーシャ・ジャパリゼと出会った。また、ナリマノフはアストラハン医師会やアストラハン国民大学協会副会長、保険会社「ロシア」でも医師として活動を続け、アストラハン市議会議員も4年間勤めている。同時期には、アストラハンのムスリムの組織化や、市議会教育委員としての活動もある。 1911年にナリマノフは、ペストの調査にアストラハンを訪れたイリヤ・メチニコフの助手として、ペストの流行地帯であった(当時はキルギスステップと呼ばれていた)カザフステップの奥地で医療活動に従事した。 1913年7月15日にナリマノフはバクーへ戻り、文化教育団体「ニジャト」教育部部長、協同組合「ガナエト」会長、国際文化教育協会「ハルグ・エヴィ」理事など、またも社会活動で要職を歴任した。翌1914年6月4日(ユリウス暦5月22日)、市内のチョールヌィー・ゴロド(英語版)地区の臨時病院で医師の地位を得た。10月8日(ユリウス暦9月25日)にナリマノフは第8病院の院長に転勤し、1918年5月16日(ユリウス暦3日)まで勤務した。 翌6月から1919年までは、再びアストラハンへ赴いて医師として活動し、アストラハン県ソビエト執行委員会軍衛生部部長を務めた。さらにヒンメト・アストラハン支部を創設してその指導者となり、『ヒンメト』紙のアストラハン支部版も編集した。
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