アウトフィットのボス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:33 UTC 版)
「ポール・リッカ」の記事における「アウトフィットのボス」の解説
カポネの逮捕後は跡を継いだフランク・ニッティの副ボスになり、禁酒法廃止と相まってシカゴの外に進出した。ヤミ賭博と組合強請を主収入にアメリカ中南部の諸都市に拠点を作った。ロサンゼルスのジョン・ロッセーリらと共にハリウッドの映画産業へ進出し、映画職人組合への強請行為を開始した。RKO、パラマウント・ピクチャーズ、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、そして20世紀フォックスなど主な映画スタジオを脅迫して示談金を詐取した。 構成員のウィリアム・モリス・バイオフが刑期短縮を当て込んでアウトフィット上層部の強請関与を当局に証言した直後の1943年3月18日、ボスのニッティの自宅においてリッカらは会議を行った。その会議において組織の為にボスのニッティが引退するべきということが話し合われた(ニッティは極度の閉所恐怖症であり、その為に彼は刑務所の牢獄に監禁されるのを恐れていた)。この提案を聞いたニッティは、会議の為に集まったメンバーらを家から追い出した。その翌日、ニッティは自宅近くの鉄道操車場にて銃で自殺を遂げた。リッカがボスの座に就任し、トニー・アッカルドを副ボスに据えた。 1943年12月30日、連邦陪審はリッカやロッセーリに有罪判決を下し、懲役10年刑で収監された。服役中はアッカルドが代理ボスを務めた。アウトフィットの政治フィクサーであるマレー・ハンフリーズがハリー・トルーマン政権の司法長官を務めていたトム・C・クラークと交渉して早期釈放を成功させ、リッカとロッセーリは大統領特赦により3年で釈放された。
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