わが山河いまひたすらに枯れゆくか
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冬 |
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評 言 |
昭和五十年作。句集『山河』(昭和五十一年 東京美術)所収。 遷子は、東大医学部卒業後、同大島薗内科医局時代に秋桜子に出合い「馬酔木」同人として活躍。昭和十五年(三十二歳)北支へ出征。同十七年病気のため本土へ送還される。次の年、函館病院内科医長として赴任。病気再発のため昭和二十一年郷里信州佐久に帰り療養。翌二十二年地元の野澤町に「相馬医院」開業。四十九年(六十六歳)胃癌にて入院、手術。五十一年一月十九日、胃癌その肝移転にて死去。 このように医師として、患者だけでなく自らの病老死も見つめてきた遷子。時には、市井の開業医遷子の目が当時の社会を鋭く批判したりもしている。「食すすむ薬代の芹山と積み」「薬餌謝して死を待つ老やうすら繭」(『雪嶺』)。 掲句、「わが山河」は一義的には、住み慣れた信州佐久の自然であるが、死を意識していた遷子にとって山河即ち自然は宇宙と同義であった。ひたすら枯れゆく山河を愛おしむ。「わが山河まだ見尽さず花辛夷」(昭和四十九年作)と、死を思い始めた遷子はいよいよ自然への愛着を強くした。 それにしても、医師が自分の病を見つめるのは酷なことだ。「わが病わが診て重し梅雨の薔薇」「長病みの医師こそかなし韮の花」(『山河』)等を読むと、遷子の思いが胸に迫る。しかし、遷子は科学者としての自分を失わなかった。「冬麗の微塵となりて去らんとす」(『山河』)の「微塵」の措辞。遷子は死後の世界を信じてはいないのだ。しかし、自分は微塵となり宇宙に漂う物質の一つとなるが、微塵となった物質はまた様々な過程を経て生物となり山河となるという循環をも考えていたのではあるまいか。私には「冬麗」がそれを暗示しているように思われる。 |
評 者 |
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備 考 |
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