つげ義春との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:27 UTC 版)
特につげ義春の最大の理解者として知られ、公私ともに強いシンパシーを抱いており、つげに多くの発表の場を与えた。 1962~1963年頃、大学生の知り合いに「白土三平より残酷な漫画を書く人がいる」と教えられてつげの『忍者秘帳』を読むが、白土の亜流としか映らずマイナスイメージを覚えていたもののその後発表された『沼』、『チーコ』、『初茸がり』の3作に、つげの心象風景が見事に投影されていることに大きな衝撃を受ける。ガロの読者として当初は白土三平を中心に読んでいたが、つげ義春が同誌に4-5本描いた。ところがその後描かなくなったために、このまま消えてはまずい!と感じ青林堂に入社し、直接つげに描いてもらおうと考え、入社。その際、長井に対し「もし入れてくれないんなら、青林堂に火を付けますよ」と発言。すると2週間後くらいに長井から当時勤めていた「日本読書新聞」に電話があり、「あさってから来てよ」との言葉に即日退職を決意。つげ義春とは、日本読書新聞時代に水木しげるに関与していた関係で、一度だけ紹介されていたが、その際、つげはほとんどしゃべらなかった。ガロ入社時にはつげは水木プロにアシスタントとして『墓場の鬼太郎』などを描いており、自作を発表する意欲を失っていたのを、権藤が半年かけて口説き落とした。水木しげるの原稿を取りに行くのは月に2回だけだったが、そのわずかの機会を利用してのことだった。 つげは当時、5時~6時頃まで水木プロで仕事をしていたが、ある日、水木が気を利かせて「つげさん、もういいですよ」と早めに切り上げさせた。その日、権藤は徒歩2-3分のつげのアパートでよもやま話をする機会を得た。その際の話題は、漫画の話題は出さず、主につげの関心の高かった旅と民俗学関係の話題が主だった。その後、半年後につげは『通夜』を発表。それを契機にほぼ毎号、ガロに新作を発表することになる。つげは水木の作品を描くことで、水木の描き方を習得し、水木はつげとの会話などからストーリー造りのヒントを得ていたと権藤は見ている。水木プロ在籍時には、つげはしばしば突然姿を消したが、その際には水木から権藤に電話で問い合わせがあったという。権藤によれば水木はつげが大好きで、常に一緒にいたがったという。つげが退職を願い出た際には、権藤に引き留めてもらうよう懇願した。この際の蒸発は10数日間で帰ってきた。この際の出来事は『蒸発旅日記』に詳しい。
※この「つげ義春との関わり」の解説は、「権藤晋」の解説の一部です。
「つげ義春との関わり」を含む「権藤晋」の記事については、「権藤晋」の概要を参照ください。
- つげ義春との関わりのページへのリンク