その後の塗籠と納戸とは? わかりやすく解説

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その後の塗籠と納戸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)

寝殿造」の記事における「その後の塗籠と納戸」の解説

481:『慕帰絵詞』の「塗籠」 482:『慕帰絵詞』の「納戸483近衛殿寝殿 484足利義教寝殿 鳥羽天皇の頃から帳台塗籠の外に建てられたが、しかし塗籠寝室ではなくなったわけではない画像481南北朝の頃、観応2年(1351)の『慕帰絵詞』(ぼきえし)であるが、その左下描かれているのが塗籠である。東三条殿(画像030)の塗籠のように大きくはなく立派な妻戸も無い。しかし蹴破ればすぐに侵入出来る襖などではなく塗壁板壁囲まれ出入口小さな遣戸には中から環貫が掛かるようになっている。中の広さは四畳ぐらいで畳み敷き詰められ塗壁の下には副障子張られ守り刀描かれている。 同じ『慕帰絵詞』の画像482は金庫室としての塗籠である。中には鞍などが置かれている。塗籠は最も閉ざされスペースで元々金庫室寝室兼ねていた。塗籠から出て母屋設置した帳台に寝るようになっても、その帳が徐々に変化して障子囲まれ障子帳帳代)となり、寝殿等の建具による間仕切りが進むにつれ、その障子帳間仕切りひとつとして建物作り付けになってゆく。 一方で金庫室としての塗籠も完全に消えわけではない画像483嘉禎3年(1237)正月時点近衛殿小型寝殿である。母屋を棟分戸で南北仕切っているが、東側に「御帳」と「塗籠」が南北並んでいる。「御帳」とあるのが作り付けになった障子帳である。 画像484国立国会図書館室町殿御亭大饗指図」(永享4年7月25日)や『満済准后日記』から川上貢復元したものを元に作成した足利義教寝殿復元図である。そこにも金庫室としての塗籠が「御小袖間」として出てくる。ただしこの段階では塗籠御小袖間」は母屋東西どちらかではなく母屋北側、棟分戸の北に位置している。

※この「その後の塗籠と納戸」の解説は、「寝殿造」の解説の一部です。
「その後の塗籠と納戸」を含む「寝殿造」の記事については、「寝殿造」の概要を参照ください。

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