石川喜平(いしかわきへい 1784-1862)
同地の都築弥厚が五ケ野、安城野と呼ばれる地(現愛知県安城市)の開発のため、台地を貫流する用水路を計画し、その測量を担当したのが石川喜平である。
都築弥厚が描いたこの用水計画は、小領主などの抵抗もあって成功しなかったが、それから約40年を経て、岡本兵松、伊予田与八郎らの新しい提案者の出現により明治12年(1879)に着手され、翌年には通水を開始したのが明治用水である。岡本らは、弥厚の計画を継承し、計画に疑念を持つ村々の説得に力を入れたという。
明治用水の原型をつくった都築弥厚、そして、測量技術などのことで支えたのが石川喜平である。石川は碧海郡高棚村(現安城市)の和算家であった。同じ碧海郡の関流の清水林直に和算を学び、免許を受け、村の内外には多くの門弟を持っていたというほか、詳細は不明である。残された書籍の多くは和算と天体観測記録など暦に関するものが多いが、僅かに測量に関するものも含まれているという。その中には、喜平の手による水路計画図(明治用水土地改良区所蔵)があり、流路と台地の輪郭そして水路計画線とともに、主要な村々の間は線で結ばれ、朱で距離が書き込まれている。
使用した測量器具(木製の見盤)は、明治川用水会館に保管されている。見盤の上部には十二支が刻まれ磁石も埋め込まれていたようである。また、取り付けられた小さな二本の角材には中心に小穴があけられており、これにより目標方向を視準し、磁石により方位を読みとったと思われ、金属製の測量機器が出現する以前に地方(じかた)で使用された木製見盤の典型である。

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