『赤い鳥』への発表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 08:25 UTC 版)
当時の子供が歌う歌としては小学唱歌があったが、硬い語感のある歌詞や教訓的な内容は、子供の自然な感情から離れたものであった。そこで『赤い鳥』では、子供たちのための読物とともに子供のための歌として童謡が数多く発表された。 『赤い鳥』の主宰である鈴木三重吉は、掲載する作品を探していた際に、詩人の灰野庄平から八十の存在を教えられた。当時の八十が同人誌『仮面』に発表した詩『鈴の音』は、八十が関与しないところで第三者によって曲があてられ、学生たちの間で頻繁に歌われていた。そこで、鈴木は、神田の出版社の2階にある八十の自宅を直接訪れ、「新しい童謡をあなたにかいていただきたい」と依頼した。その依頼を受けた八十は『赤い鳥』に『忘れた薔薇』(童謡『薔薇』)を寄稿し、以降は1921年(大正10年)8月号までほぼ毎月、童謡を1編発表することとなった。 父の急死や兄の放蕩などによって財産を失った家族を支えるために株や商売などを始め、詩の創作を中断していた八十にとって、三重吉からの依頼は詩の創作へと再び戻る契機となったことを、1921年(大正10年)に発表した童話集『鸚鵡と時計』の序で述べているが、序では三重吉を「象牙の船と銀の櫂を添え、月夜の海に浮かべてくれた忘じき恩人」であると、『かなりや』の詞になぞらえている。
※この「『赤い鳥』への発表」の解説は、「かなりや」の解説の一部です。
「『赤い鳥』への発表」を含む「かなりや」の記事については、「かなりや」の概要を参照ください。
- 『赤い鳥』への発表のページへのリンク