『赤い鳥』時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 10:18 UTC 版)
14歳だった1925年には亀城小学校高等科を卒業して上京し、5年間を東京の川上児童楽劇団で過ごした。川上児童楽劇団は川上貞奴が晩年の情熱を傾けた劇団であり、相談役に久留島武彦、音楽に高階哲夫や高階満寿、舞踊に高田雅夫などを擁していた。1929年(昭和4年)には『赤い鳥』が休刊となるが、1931年(昭和6年)に『赤い鳥』が復刊されると、3月号には茅原順三の筆名で投稿した作品が掲載された。3月には千葉省三らによる同人誌『童話文学』にも本名で投稿した作品が掲載されている。『赤い鳥』には毎号のように作品が採用され、複数の筆名で一号につき2-3作品が掲載されることも珍しくなかった。日本の古典や昔話、国外文学の再話と、森三郎は広いジャンルの作品を書く器用さがあった。 1932年(昭和7年)1月には鈴木三重吉を訪問して創作活動の指導を受け、21歳だった6月には赤い鳥社に入社して編集や作品執筆に携わった。他誌の影響で『赤い鳥』への投稿が減ると、森自らがサクラとして『赤い鳥』に投稿することもあったとされる。 1936年(昭和11年)に鈴木三重吉が亡くなると、森が企画編集した「鈴木三重吉追悼号」(『赤い鳥』10月号)が赤い鳥社から刊行された。『赤い鳥』は追悼号を最後に休刊となったが、それまでに森三郎が同誌に発表した作品は判明しているだけで119編あり、用いた筆名は本名を含めて46にも及んでいる。
※この「『赤い鳥』時代」の解説は、「森三郎」の解説の一部です。
「『赤い鳥』時代」を含む「森三郎」の記事については、「森三郎」の概要を参照ください。
- 『赤い鳥』時代のページへのリンク