『スワニー』の誕生と成功
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「スワニー (ガーシュウィン)」の記事における「『スワニー』の誕生と成功」の解説
1919年、ガーシュウィンのキャリアにおいて重要な作品が誕生した。この作品の誕生は、アーヴィング・シーザーの閃きが契機となった。20世紀の初頭、「ワンステップ曲」という軽快なダンスが大流行していた。シーザーもこの流行の波に乗ろうと考え、ガーシュウィンとともに『スワニー』を作り上げた。作曲は極めて迅速に行われ、30分足らずで完成したと伝えられている。 初演は同年10月24日のことで、ニューヨークのキャピトル劇場の「キャピトル・レヴュー」に組み入れられた。このときには、特に注目を集めずに終わっていた。 埋もれかけていたこの曲に注目したのは、歌手のアル・ジョルソンだった。ジョルソンはあるパーティーの席でガーシュウィンから『スワニー』のことを聞き、すぐに自らのショー「シンバッド」の中で歌った。ジョルソンの歌った『スワニー』は大ヒットとなった。1920年に録音したレコードは225万枚の売り上げを記録し、楽譜の売り上げは100万枚を突破している。 『スワニー』の成功によって、ガーシュウィンはヨーロッパでも名声を得た。1923年にガーシュウィンがロンドンに旅したとき、ポーターがパスポートを見るなり「『スワニー』の作曲家ですか」と質問してきた。ガーシュウィンは兄アイラ宛の手紙で「一瞬地面から足が浮いてしまう」と書き送ったほどにその質問を喜んでいた。 ガーシュウィンとシーザーは、『スワニー』の大ヒットによってそれぞれ1万ドルを1年間に稼ぐことになった。ガーシュウィンの歌曲としては、商業的に一番のヒットを収めた作品である。『スワニー』は、ガーシュウィンが生涯に手がけた約500作にのぼる歌曲のうちでも、多くの人々に親しまれる曲の1つと評価される。そのメロディーは『ラプソディ・イン・ブルー』(1924年)のテーマとともに、ガーシュウィンのトレードマーク的存在となった。
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