『スロバキア人よ』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 04:30 UTC 版)
歌詞はスロバキアの聖職者であり、且つ詩人及び歴史家でもある Samuel Tomášik が1834年にプラハを訪れた際に書かれた。プラハの通りでチェコ語よりドイツ語の方が多く聞こえて来た事に反感を持ち、日記にこう記している: …もし西スラブ世界の真珠、母なるプラハが、ドイツ語の海の中に消えてしまうとしたら、プラハを精神的な栄養とするわが親愛なる母国スロバキアの行く手に何が待っているだろう。このような考えに縛られながら、私は古いポーランドの歌(注:ドンブロフスキのマズルカ)、『Jeszcze Polska nie zginęła, kiedy my żyjemy(われらが生きる限り、ポーランドはまだ消えない)』を思い出していた。この慣れ親しんだメロディーは、私の心に『Hej, Slovaci, ešte naša slovenska reč žije(おい、スロバキア人よ、われらのスロバキア語はまだ生きている)』という挑戦的な内容の詩を噴き出させた。…私は部屋に駆け込み、キャンドルをともし、日記帳に鉛筆で三つの節を書き込んだ。こうして歌は一瞬で出来上がった。(1834年11月2日日曜日の Samuel Tomášik の日記より)
※この「『スロバキア人よ』」の解説は、「スラヴ人よ」の解説の一部です。
「『スロバキア人よ』」を含む「スラヴ人よ」の記事については、「スラヴ人よ」の概要を参照ください。
- 『スロバキア人よ』のページへのリンク