「高野総評」時代の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:37 UTC 版)
しかし1953年頃から、総評・左社内で反高野の動きが広まってくる。 1953年、高野は総評第4回大会にて、米国を戦争勢力、ソ連・中国を平和勢力とみなす「平和勢力論」を唱え、東西両陣営に加わらないとする「第3勢力論」を唱える鈴木茂三郎ら左社幹部と対立するようになる。 また同年に実施された第26回衆議院議員総選挙にて、自由党が199議席と過半数を大きく下回る結果に終わったのを受け、打倒吉田のため、改進党党首重光葵を首班とする野党連合政権樹立を訴えたが、左社の独自性を損なうものとして党内の活動家層から反発を買った。 高野は民族課題を重視する立場から、また経営側と強い対決姿勢の取りにくい「企業別労働組合」の限界を乗り越えるため、農民、市民、中小資本家層をも含んだ国民運動的連帯が必要と考えていた。その方向性に則り、労働争議において「家族ぐるみ・地域ぐるみ闘争」(いわゆるぐるみ闘争)を展開するが、日産争議、尼崎製鋼所争議、日鋼室蘭争議と立て続けに敗北し、経済闘争路線を重視する太田薫・岩井章に敗れ去った。 1955年の事務局長選挙で岩井章に敗れ、完全に主流から外れる。その後は1956年全国金属副委員長などの閑職を勤め(~1970年、のちに顧問)、同年日本共産党に入党するも、1968年同党から除名される。 1974年9月13日、肺結核のため死亡。享年73。
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