「連邦主義者」か、「分離主義者」か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 03:17 UTC 版)
「同盟 (イタリア)」の記事における「「連邦主義者」か、「分離主義者」か」の解説
北部同盟の政治目標は創立当初、それほど明確に決定された物ではなかった。当初、同盟の構成政党は、地方運動が団結することで地方自治を前進させるという程度の発想で動いていた。彼らの地方分権運動、連邦主義運動が「イタリアからの分離独立」を策動するものであるという主張は、むしろ北部同盟を批判する保守派によって喧伝された部分が大きい。後に策定された政治目標でも北部同盟は連邦主義を掲げるのに留まっていたが、急速に彼らの運動は冷戦後の政界再編で注目を集める事となる。急速に政治的権力を与えられた事で過度の自信を得た同盟内では、長期的な政治運動ではなく過激な強硬論が罷り通るようになっていった。 1996年、ベルルスコーニ政権内で主流派であるフォルツァイタリア党と北部同盟が対立する事件が起きると、分権政策を不服とした北部同盟は政権を離脱する。先鋭化した同盟では分離主義すらも交渉手段に用い始め、北部独立論に関する一種の理論武装を行った。その中で党のイデオローグ(理論家)として著名であった政治学者ジャンフランコ・ミグリオはイタリアを「パダーニア、エトルリア、スッド」という3つの国家に分離すべきと主張した。 1996年9月15日にボッシはパダーニアの語源であるポー川で独立闘争の開始を宣言し、北部同盟のシンボルカラーである緑になぞらえて「緑シャツ隊」(黒シャツ隊の模倣)を組織した。 しかし党勢が衰退し、ベルルスコーニ政権と復縁した2001年頃から再び強硬論は鳴りを潜める。先の三国論も「連邦制移行後の行政区画として希望する」というものへと戻っていった。党の度重なる方針転換は少なくない離脱者を党内で生む事となった。同時に単純な特定地域の優遇ではなく地方分権主義そのものの前進を望むという立場は、北部同盟が単なる地方運動から脱却する結果も生み出した。
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