「快楽/苦痛」の「真偽」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:24 UTC 版)
「ピレボス」の記事における「「快楽/苦痛」の「真偽」」の解説
続いてソクラテスは、「快楽/苦痛」には「真偽の区別」があるか問う。プロタルコスは、「思いなし」(ドクサ)には「真偽の区別」があるが、「快楽/苦痛」には無いと答える。しかし、ソクラテスが「正しい思いなし」「知識」などと共にある「快楽」と、「偽り」「無知」と共にある「快楽」は同じなのか問うと、プロタルコスは違うと答えるので、その両者の違いを考察していくことにする。 ソクラテスは、「思いなし」(ドクサ)や、それを反省する行為は、「感覚」や「記憶」から生じるのであり、例えば、見ているものが遠くてよく見えない場合、それが何であるかを自問し、答え、誤ったら修正し、また他者が一緒にいたらその「思いなし」を口外・言表したりもする、そのようにして「思いなし」は形成されると指摘する。そして、そのような場合における「魂」は、ちょうど「感覚」と「記憶」と、それらに関連した「身体の情態変化」が合わさった情報が、「筆記者」によって書き込まれる「(パピルスの)白紙」のようなものであり、「筆記者」が真を記入すれば「真なる思いなし」になり、偽を記入すれば「偽なる思いなし」になるようなものだと指摘する。プロタルコスも同意する。 さらにソクラテスは、「筆記者」の後を受けて、次は「絵師」が「魂」に「思いなし」の「絵姿」を描くのであり、「真なる思いなし」の「絵姿」は真になるし、「偽なる思いなし」の「絵姿」は偽になると指摘する。プロタルコスも同意する。 そしてさらに、そうした「魂」の中の「記述」「絵姿」は、過去・現在の「感覚」「記憶」としてだけでなく、将来に対する「期待・希望」としても生じることが同意される。 続いてソクラテスは、「正しい人/善き人」の「真」なる認識に基づく「快楽」もあるけれども、「不正な人/悪しき人」の邪な「偽」なる認識に基づく「快楽」もあるのであり、後者の「快楽」はいわば「偽りの快楽」であること、したがって、「快楽」にも「真偽の区別」があるのであり、「偽りの快楽」は過去・現在・将来のいずれかに対する「虚偽の思いなし」に基づいて生じるのだと指摘する。プロタルコスも同意する。 またソクラテスは、「快楽/苦痛」は相対的な関係性・比較によって、大きくなったり、小さくなったりもすると指摘する。プロタルコスも同意する。
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