「忠衡の首」という誤認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 02:23 UTC 版)
中尊寺金色堂内の秀衡の棺内に保存されている首は寺伝では忠衡のものとされ、首桶が入っていた木箱にも「忠衡公」と記されていた。 1950年(昭和25年)の実見調査で確認された晒首痕跡から、16箇所もの切創や刺創が認められた。なかでも鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡が確認され、この痕跡と首には眉間と後頭にある直径約1.5cmの小孔が18cmの長さで頭蓋を貫通した傷跡があり、八寸(24cm)の釘を打ち付けたとする『吾妻鏡』の「泰衡の首級は眉間に鉄釘を打ち付けられた」という記述と一致したため、現在では兄・泰衡のものとするのが定説化している。 このような誤伝がなされていたのは、義経の「判官贔屓」の影響とされる。つまり、「父の遺言を守り悲劇の英雄・義経を支持した忠衡こそ、真の4代目たるべし」という心情である。また、「逆賊(謀反人)の汚名を被った泰衡が、鎌倉軍が管理していた金色堂に納められる訳がない」という長年受け継がれてきた思い込みからの推測も理由として挙げられる。研究者の間では謀反人である泰衡が葬られることを近親者(樋爪俊衡・季衡との推測がある)が憚ったため、首の主を「忠衡」ということにしたという憶測もある。
※この「「忠衡の首」という誤認」の解説は、「藤原忠衡」の解説の一部です。
「「忠衡の首」という誤認」を含む「藤原忠衡」の記事については、「藤原忠衡」の概要を参照ください。
- 「忠衡の首」という誤認のページへのリンク