「快・苦」の「計量の技術」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 03:30 UTC 版)
「プロタゴラス (対話篇)」の記事における「「快・苦」の「計量の技術」」の解説
更にソクラテスは、「「快」=「善」」「「苦」=「悪」」ということが明らかになったのだから、今度は「善」と「悪」のみ、あるいは「快」と「苦」のみを用いて、先の意見を検討してみようと提案。そうすると、「「悪」を「悪」と知りながら、「快」に負けて「悪」を行う」という先の意見は、「「悪」を「悪」と知りながら、「善」に負けて「悪」を行う」ということになり、また他方では、「「苦」を「苦」と知りながら、「快」に負けて「苦」を行う」ということになる。これはつまりは、「目先の少ない「善」「快」に負けて、後の多くの「善」「快」を捨てる」ということであり、ここでは「快」の「量」のみが問題になっていることを指摘。そして、そうであるなら、秤にかけてより多い(重い)「快」の方を選べばいいと指摘。プロタゴラスも、同意する。 ソクラテスは、他方で我々の肉眼は、「近いものを大きく、遠いものを小さく」見せもする。すなわち、「近くの「快」を大きく、遠くの「快」を小さく」見せもすると指摘。 ソクラテスは、では、我々が生活を安全に保つためには、前者の「計量の技術」と、後者の「見えるがままの現象が人にうったえる力」、どちらに頼ったらいいだろうか問う。プロタゴラスは、世人たちも前者を選ぶだろうと答える。ソクラテスは、それでは我々が生活を安全に保つために必要なものは、ある種の「計量術」の「知識」であると指摘。したがって、先に世人の考えとして述べられたように、「「知識」が(目先の小さな)「快」に負ける」ということはなく、むしろ「計量術」の「知識」の不足、すなわち「無知」ゆえにこそ、(目先の小さな)「快」に負けるということを指摘。皆、同意する。 ソクラテスは、「悪い事柄に対する一種の予期」が「恐れ」ではないかと指摘。皆、同意する。ソクラテスは、では「自分が恐れない(悪い事柄ではないと予期する)事柄へ向かうことができるのに、あえて恐れる(悪い事柄であると予期する)事柄へ向かう者」などいないのではないかと指摘。皆、同意する。
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