「子部屋」の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:40 UTC 版)
1874年(明治7年)、天然痘の収まった頃、マキのもとには、天然痘で両親を喪った1人の赤ん坊が遺されていた。マキは、この赤ん坊の養育を始めた。 この赤ん坊のみならず、病気に台風と災害の連続、同1874年の佐賀の乱や台湾出兵による県全体の困窮状況、加えて明治初期の不安な社会情勢において、孤児や捨て子は増える一方であった。 マキは、この子供たちの救済を決心した。同志たちと協力し、生涯を孤児の養育に捧げる決意を固めた。今までの合宿所は手狭であったため、蔭ノ尾島でキリシタンの1人の家を借りた。育児活動が本格的に始まった頃、浦上の人々はマキの施設を「子部屋」と呼び、マキたちの団体を「女部屋」と呼んだ。 ド・ロ神父は精神面、経済面でマキたちを支援し、経済面の基礎固めとして、マキたちに田畑を買い与えた。公の援助は皆無であり、マキたちは自力で畑を作り、費用捻出念のためにカイコを飼って機織りに励んだ。生活は苦しく、狭い板の間にむしろを敷き、布団は1枚を交替で用い、イモと醤油粕で食事を凌ぐことも、味噌汁を欠けた茶碗で回し飲みすることもあった。 1879年(明治12年)、合宿所は修道会組織「十字会」となった。これは長崎浦上養育園の前身である。長崎県内には他にも23か所に同様の女部屋ができ、十字会はその基本となった。マキは浦上修道院の院長として、修道院と養育院の経営にあたった。
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