「大山量士」として
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『日本のいちばん長い日』では、「佐々木は14年間にわたって逃亡していた」ということになっている。刑事訴訟法上の放火罪の法定時効15年に合わせて世に出てきたと半藤一利は説明するが、秦によればこの記述は正しくなく、早くも1949年(昭和24年)には東京に出てきて財団法人を設立し、このころから「大山量士」としての後半生が始まる。次いで1951年(昭和26年)3月23日には有志とともに「亜細亜友之会」を設立して事務局長におさまった。これと相前後して鈴木の長男である鈴木一に面会し、終戦の際の事件を詫びたところ、逆に「あんなことでもしなければ、腰ぬけに思われたでしょう。まあ、いいじゃないですか」と慰められ、逆にこれが縁となって鈴木一は「亜細亜友之会」の活動を支援するようになる。「亜細亜友之会」は設立当初こそ政治運動にかかわったが、年を経てからはアジア諸地域からの留学生の支援に活動の重きを置くようになる。ただし、60年安保のころにはアジアからの留学生らを引き連れて、「新しいアジア」建設を呼びかける運動のために日本一周の活動を行っていたことを元毎日新聞記者の加藤順一が明かしている。「亜細亜友之会」は1962年(昭和37年)に財団法人となり、大山こと佐々木は会の理事長の地位在職のまま1986年(昭和61年)3月20日に80歳で亡くなった。 1967年の映画版『日本のいちばん長い日』では天本英世が佐々木を演じているが、佐々木の有志によれば「大体は映画の通りです。ただ映画の佐々木さんは妖しい眼光を放つ長身のやせた男が演じていますが、実物は小肥りの人でした」と評している。2015年に再度映画化された際には松山ケンイチが演じた。
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