MIM-3 (ミサイル) アメリカ国外での運用

MIM-3 (ミサイル)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 01:07 UTC 版)

アメリカ国外での運用

運用国一覧

日本での運用

導入に至る経緯

1954年自衛隊が創設された後も、高射部隊による日本本土防空については、連合国軍占領下の時期と同様に在日米軍が担ってきたが、1957年5月に米陸軍高射砲部隊の解隊撤収が表面化すると、日本は自力での対応を迫られることとなった[10]。当時、既にアメリカ本土では上記のようなナイキ部隊に加えてホーク部隊の整備も進んでおり、またヨーロッパでもミサイル化の趨勢は明らかであった[10]。しかし陸上自衛隊管区隊混成団といった地上部隊に注力しており、高射部隊の構想は非常に漠然としていた一方で、航空自衛隊も飛行部隊の育成に注力しており、陸自が米軍撤収後を引き継がないのであればこちらでやるという意気込みはあったものの、双方ともに確たる計画はない状況であった[10]

1957年9月、統合幕僚会議において各幕防衛部長級が参加する防空研究会が発足し、1958年3月にはその一環として「やよい研究」が行われた[10]。これは主務者も参加する検討会であり、SAM帰属決定の基礎となる建設・維持管理・訓練・作戦運用等広範に及ぶ諸問題を検討する大がかりなものだった[10]。同月末で防空研究会は3月末に解散となり、同時期、内局に防空装備委員会が設置された[10]。このように統幕・内局での検討が進められるのと並行して陸・空自でもそれぞれ準備を進めており、陸幕では1957年12月に翌々年度業務計画でのロケット実験隊の新編を要望し、1958年8月には陸幕第3部にロケット班を設置したのち、ロケット実験隊編成準備のため、1959年2月から3月にかけてロケット班班長以下6名の視察団を派米している[10]。また空自も米陸軍防空学校への要員留学、陸自高射部隊への特別派遣勤務、中部航空方面隊防衛部高射班設置と着々と布石を打っていたが、陸幕長の猛烈な反対を受けて、1958年9月には高射訓練隊編成準備を取りやめざるをえなくなった[10]

1959年、年末にロケット実験訓練隊の編成を控え、SAM導入に関する在日軍事援助顧問団(MAAG-J)との交渉が進められる段階となったこともあって、帰属論争が激化した[10]。この時点では、陸自はナイキやホークを高射砲の延長線上として捉え、これらの建設・維持・補給整備を一体化して管理した方が効率的である上に陸自は現有の人員施設で容易にこれが可能であることから、陸自がこれらを保有したうえで、防空作戦については空自の統制を受ければよいと主張していた[10]。一方、空自としては主要都市・基地防空で飛行部隊の間隙と低空域を補完するためにナイキが必要であり、防空作戦の特性上、情報収集から目標割り当てに至るまで精密迅速を期すためには、平時から航空機とSAMは統一指揮下での管理・訓練が不可欠という主張であった[10]

1959年7月、統幕会議において「SAMの導入、研究開発、部隊建設および指揮運用」についての方針が発表され、高高度・長距離SAMは空自、低高度SAMは陸自という原則が示された[1][10]。この決定では肝心の高射部隊の帰属については明言されなかったものの、秘密諒解事項として、ナイキ級以上の高高度・長距離SAMは空自、ホーク級を含め低高度SAMは陸自の担任とする一方、当面のSAM部隊建設は陸自のロケット実験訓練隊を母体として行い、ナイキ・アジャックスは陸自で建設するという約束事があったとされる[10]。10月7日には、この秘密諒解事項に沿って、SAMに関する長官指示が発出された[10]

ナイキの導入にあたり、アメリカ側からは、他の導入国と同様にパッケージ訓練方式(Pachage training group, PTG)による部隊建設が要望されていた[10]。当初は、陸・空自から1個大隊ずつを派米して訓練を受けることが計画されていたが、大蔵大臣発議によって1個大隊分が削除されたため、第1回派遣大隊を陸・空自のどちらにするかが問題となった[10]。1959年12月4日には陸上自衛隊高射学校でロケット実験訓練隊の編成完結式が行われるなど育成基盤が充実していることを関係者にアピールしたことも奏功して、第1回PTGは陸自主導とする機運が高まった[10]。結局、第1回PTGはロケット実験訓練隊を母体として陸自より派遣されることとなり、統合部隊に準じて統合的に運用されるとはいえ[1]、空自からの要員は陸自に転官してPTGに参加し、PTG終了後にどちらかに所属を統一する方針となった[10]

1960年4月にはナイキ供与およびPTG訓練に関する日米政府間の了解覚書が締結され、5月24日に連絡幹部等6名が出発したのを皮切りに、順次に渡米した[10]。大隊長は陸自、副大隊長は空自で、人員は23が陸自、13が空自で、空自隊員も陸自の制服を着用することとされた[10]。7月には各課程別の技術教育が終了し、フォートブリスにおいて訓練大隊を編組して部隊訓練を行った[10]。訓練の総仕上げとして行われた実射訓練では12発中9発成功という成果を収め、米軍評価チームからは98.3点の高評価を受けた[10]

この間、1961年6月には源田空幕長が欧州を視察してナイキの空自帰属を主張、同年9月から10月に欧州を視察した久保防衛第1課長もナイキの空自配属を示唆する帰国報告を行った[10]。その後も帰属問題に関する激論が続いていたが、1962年9月よりナイキ装備品の陸揚げが開始され、第1回PTGの帰国が近づくと、防衛庁は帰属の最終決定を迫られることとなった[10]。10月中旬、海原防衛局長は、ナイキを陸・空自それぞれに帰属させた場合の利害について説明を求め、11月9日には大森陸幕長松田空幕長志賀防衛庁長官に所信を表明してこれに応えた[10]。そして12月26日の庁議において、第1次ナイキ部隊を陸自において編成したのちに1964年4月に空自に所属を移し、第2次ナイキ部隊は空自で編成しその所属とすることが決定された[10]

運用史

1963年11月、PTG要員を基幹とした長官直轄部隊として、陸上自衛隊第101高射大隊が編成された[11]。その後、上記のように帰属が決定したことから、同大隊および第301高射搬送通信隊、第101高射支援隊は1964年3月31日付で廃止され、1964年4月1日、第101高射大隊および第301高射搬送通信隊が空自に移管されて、第1高射群として再出発した[11]1966年2月1日には第2高射群が編成されたが、この時点で既にアメリカ陸軍はナイキ・アジャックスからハーキュリーズへの更新を進め、アジャックスの製造は終了していたため、空自も近い将来にハーキュリーズに移行することは避けられない情勢であった[12]。このため、第2高射群の陣地・施設整備にあたっては、アジャックスの装備を受け入れつつも、可能な限りハーキュリーズにも対応可能なように措置が講じられた[12]

第3次防衛力整備計画でナイキ・ハーキュリーズの採用が示されたが、同ミサイルは核・非核弾頭両用であったことが問題となり、実際に採用されたのはこれをもとに非核弾頭専用に改修したナイキJ弾となった[12]1971年3月には第1高射群、1972年6月には第2高射群のナイキ・アジャックスがナイキJに換装された[12]。両部隊が装備するシステムは「ナイキ・ユニバーサル」としてハーキュリーズにも対応可能なものであり、基本的にはナイキJミサイルを搬入して組み立てるだけで換装が完了したが、第1高射群においては、ハーキュリーズ用の安全基準等を満たすように施設の改修等を行った[12]


注釈

  1. ^ 生産数は16,000基以上であった[2]
  2. ^ バンブルビー計画はラムジェット推進艦対空ミサイル(のちのタロス)を開発するための計画であり、またその途中でテリアおよびターターが派生した。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 航空幕僚監部 2006, pp. 226–230.
  2. ^ a b Missile.index”. Missile.index Project (2005年11月20日). 2007年8月2日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h Mitchell 2018.
  4. ^ a b c d e Andreas Parsch (2001年). “Western Electric MIM-3 Nike Ajax”. Directory of U.S. Military Rockets and Missiles. 2023年9月28日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 内場 1962.
  6. ^ Nike Ajax (SAM-A-7) (MIM-3, 3A)”. Strategic Air Defense Systems. Federation of American Scientists (1999年6月29日). 2007年8月2日閲覧。
  7. ^ 原田 1979.
  8. ^ Cagle 1959, pp. 159–163.
  9. ^ a b c d e f g h i j k l Cullen & Foss 1992, p. 290.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 西田 2022.
  11. ^ a b 航空幕僚監部 2006, p. 231.
  12. ^ a b c d e 航空幕僚監部 2006, pp. 272–273.


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