1964年東京オリンピック
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実況録音
大会終了後、日本放送協会(NHK)から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録LPレコードやフォノシートが製作された。このNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時の円谷幸吉とベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、ピンク・ピクルスの歌う「一人の道」の冒頭に使用されている。
開催前後における国民の感情の変化
東京オリンピック開催4ヶ月前の6月上旬、日本放送協会放送世論調査所(現・NHK放送文化研究所世論調査部)が東京と金沢市で事前の世論調査を行った。「オリンピックには大変な費用がかかるので、いろいろな点で国民に負担をかけ、犠牲を払わせている」(東京60.6%、金沢53.7%)、「オリンピック準備のために一般市民のかんじんなことがお留守になっている」(東京49%、金沢29%)、「オリンピックに多くの費用をかけるぐらいなら、今の日本でしなければいけないことはたくさんあるはずだ」(東京58.9%、金沢47.1%)、「オリンピックは結構だが、わたしには別になんの関係もない」(東京47.1%、金沢54.3%)など、圧倒的な国民の支持に熱狂的に迎えられていた訳ではなかった[40]。
日本放送協会放送世論調査所が昭和42年に刊行した「東京オリンピック」では、大会の開会まで政府や関係者が「吹けど踊らぬ国民」をいかに躍らせるかに苦心したさまを各紙の社説などの引用から克明に記し、次のように書き残している。 「実際、開会を目前にひかえて人々の正直な感情は、関係のないお祭りということであったろう。少なくとも開会式までは、その他の人びとにとっては、まったく関係のない出来事と映っていたとしても、無理からぬことであった」
もっとも大会直後の調査では、「オリンピックは日本にプラスだったか」の問いに、89.8%が「プラスだったと思う」と答えている。
空気を変えたのは、開催前年(1963年)から新聞社(全国紙)や総理府(現・内閣府)を中心に行われた「盛り上げキャンペーン」や聖火リレーなどのイベントに加えて、開幕後も技の魅力、興奮であり、自国開催のリアルタイムで複数競技が相互に関係しながら同時進行する、総合競技大会の魔力に国民がくぎ付けになったことがあげられる。大会終盤、日本が団体を制した体操男子は視聴率80%、「東洋の魔女」が優勝した女子バレーボールの決勝は85%を記録した[40][41]。
世界情勢
東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)10月14日のソ連のニキータ・フルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(後述のとおり本大会には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「瞬間的に世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。
- 史上初の3人乗り宇宙船であるソ連のボスホート1号(1964年10月12日打ち上げ、10月13日帰還)は東京上空を飛行するにあたり、オリンピックに参加する「世界の青年に熱烈なあいさつを」送った。
- キング牧師のノーベル平和賞受賞が決定したのも、会期中の10月14日のことである(受賞式典は12月10日)。
- イギリス領北ローデシアは、閉会式当日にあたる1964年10月24日(日本時間では同日午前7時)にザンビアとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。選手村の国旗なども、同日をもって新国旗に付け替えられた。
- 新興国競技大会 (GANEFO) への参加選手への資格停止処分をめぐり、国際陸上競技連盟と国際水泳連盟と対立していた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とインドネシアは、組織委員会が両国の参加を実現すべく両者の間に入り調整を続けるも対立関係は修復されず、両国とも開会式の前日(10月9日)に不参加届を組織委員会に提出して参加しなかった[42][43]。
- 当時アパルトヘイト政策を行っていた南アフリカの参加をめぐって、これに反対・抗議するアフリカ・スポーツ最高会議の要請を受け、国際オリンピック委員会は南アフリカの参加を拒否。これに反発した南アフリカはオリンピック参加を辞退し、アフリカ各国のボイコットは回避された。
- 中華民国と「中国を代表する国家」の地位をめぐって対立していた中華人民共和国は、独立したNOCとしてIOCに加盟していた中華民国の扱いへの反発から1958年にIOCを脱退していたため、当初より参加の予定は無かった(新興国競技大会の項目も参照)。会期中の10月16日に初の核実験(原子爆弾実験)を行ってアジア初の核保有国となっている。
注釈
- ^ 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
- ^ 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
- ^ この競走で3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダ(ピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、背番号から『ゼッケン67』と題して小学校国語の教材になる)。
- ^ 1964年東京オリンピックのサッカー競技のために改装工事が行われた。
- ^ 「オリンピック・デー クーベルタン生誕100周年記念」プログラム
- ^ 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
- ^ 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。
出典
- ^ 第18回オリンピック競技大会公式報告書 上 オリンピック東京大会組織委員会
- ^ 朝日新聞.1954年(昭和29年)10月10日,6面.
- ^ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
- ^ 大毎ニュース 603 オリンピックに時の氏神 1963.02.13 放送ライブラリ
- ^ JOC年表 1961 - 1970
- ^ オリンピック東京大会組織委員会「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」『会報東京オリンピック第2号』1960年6月23日、p4~10
- ^ 『朝日新聞』2013年10月16日「教えて!東京五輪1⃣ 秋開催できないの?」
- ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p6
- ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p9
- ^ データde五輪 競技会場(3)建設整備費 当初設備投資計画では新設火2635億円 改良費98億円 - 日刊スポーツ、2015年6月22日
- ^ オリンピックを支えた募金活動 - JOC
- ^ 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」
- ^ 所蔵品の紹介 - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
- ^ a b オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン 東京デザイン2020フォーラム
- ^ 秀英体のコネタ 第28回 奇跡の普遍性 Helvetica forever: Story of a Typeface ヘルベチカ展 DNP 大日本印刷株式会社
- ^ “美の巨人たち|2014/07/05(土)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。
- ^ 1964年東京オリンピックポスター - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol.2」(文:三上孝道)
- ^ 亀倉雄策が東京五輪で示した、デザインの力。 2013年11月号 宣伝会議
- ^ 雑誌「デザインの現場」1998年No.100
- ^ 五輪エンブレムの知られざる歴史 NHK総合【おはよう日本】JCCテレビ 2016年4月25日
- ^ 東京五輪エンブレムの陰に「伝説のポスター」 巨匠・亀倉雄策の偉業 - withnews
- ^ 1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち - NHK
- ^ 2014/10/10 『SAYONARA国立競技場 56年の軌跡 1958−2014』 181頁
- ^ 競技ひと目で 1964の心 東京五輪ピクトグラム 東京新聞 2019年3月12日 夕刊
- ^ 伊原久裕「1960年代の日本のグラフィックデザインにおけるアイソタイプの受容」『デザイン理論』第64巻、意匠学会、2014年8月、9-22頁、CRID 1390577043854171904、doi:10.18910/56310、hdl:11094/56310、ISSN 09101578。
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- ^ 東京2020オリンピックピクトグラムの発表について 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日
- ^ ひと目で分かる64年-20年版ピクトグラム比較 日刊スポーツ 2019年3月12日
- ^ 2019年12月13日中日新聞朝刊16面
- ^ 『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』(安城寿子著、光文社新書、2019年)
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- ^ 遠山周平 (2016年8月30日). “VOL.15 6年後の東京オリンピックを控えて 1964年の東京ブレザーをおさらいする”. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2014年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ “町会の歩み”. 小川町三丁目西町会 (2006年5月). 2016年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ a b c 朝日ソノラマ「オリンピックの歌」1964年9月発行 ソノシート 「オリンピック音楽作品について」NHK第二音楽部長、近藤積
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- ^ 伝説の名勝負紹介サイト - ウェイバックマシン(2014年2月15日アーカイブ分)
- ^ NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」 - ウェイバックマシン(2013年12月30日アーカイブ分)
- ^ a b “前回東京五輪、直前まで国民は冷めていた”. 時事通信. 2021年9月11日閲覧。
- ^ 別府育郎「先入観」を疑え(産経新聞 2021年6月29日)
- ^ 内藤陽介『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』雄山閣 2001年 ISBN 9784803503166 [要ページ番号]
- ^ 井上一希 (2020年9月10日). “東京オリンピックで北朝鮮が金メダルを狙える競技とは?”. コリアワールドタイムズ. 2020年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月19日閲覧。
- ^ 2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
- ^ 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)。33巻 2003, pp. 171–196に所収
- ^ a b 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。33巻 2003, pp. 171–174に所収
- ^ 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(来日歓迎レセプションで「シンボル・オブ・リコグニッション」を授与、ローマ大会・東京大会のオリンピアン(体操)に「シンボル・オブ・リコグニッション」授与)
- ^ 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事
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