1964年東京オリンピック
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その他
- オフシャルエアラインには聖火も運んだ日本航空が指定され、ダグラス DC-8やコンベア880などの所有機材にロゴが書かれた。
- 開会式では、海上で1年半もの間訓練したブルーインパルスのF-86が、上空3000メートルに五色のスモークで直径1800メートル各五輪の間隔300メートルで五輪のマークを描いたことで話題を呼ぶ[43]。
- 開会宣言の前にIOCのブランデージ会長が片言の日本語で「開会宣言を天皇陛下にお願い申しあげます」と述べた後、昭和天皇が開会宣言を行った。
- 当時、ボディビルや剣道に勤しみスポーツに関心を持っていた作家の三島由紀夫が期間中のオリンピック・リポーターとして採用され、式典、各競技の感動の模様を伝える記事を毎日新聞、報知新聞、朝日新聞などに分載形式で連載した[44]。三島はオリンピック開会の感想として、「やつぱりこれをやつてよかつた。これをやらなかつたら日本人は病気になる」[45]、「小泉八雲が日本人を〈東洋のギリシャ人〉と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に迎へられる運命にあつたといつてよい」とコメントしている[45]。
- 池田勇人首相は、この前の9月に精密検査の結果ガンが見つかり、入院治療をしていて10月10日の開会式は出席したが、閉会式は欠席して、そして閉会式翌日の10月25日に辞任を発表した。翌年夏に死去。
- 日本のお家芸と言われた男子体操団体は、ローマ大会に続いて2連覇を果たしたが、前回のローマ大会と東京大会に限って団体総合では1つしかメダルが授与されていない。東京大会では女子も団体で銅メダルを獲得したが、チームへの1つだけである。他の団体競技では選手全員にメダルが授与されているので、このようなケースは珍しい。2006年10月19日になって表彰の楯が各選手に贈られた[46]。
- 閉会式は誘導のトラブルからこれまでの慣例と違い国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場するものとなった。その後のオリンピックでは東京方式が採用されるようになった。ただし国別に選手が入場しなかったのは1956年メルボルンオリンピックが先である。
- 大会後の日本における祝勝会にはメダル取得者が呼ばれていたが、男子バレーボールチームは1964年東京オリンピックのバレーボール競技でメダルを取ったにも拘らず、連絡ミスにより参加できなかった。
- 諸外国から来日するオリンピック関係者や各国元首たちを接待するための女性スタッフを30名採用し、「コンパニオン」と命名した(1964年東京オリンピックのコンパニオン参照)。「コンパニオン」という語が日本で知られる契機という。陸上競技関係者(オリンピック出場経験者である田島(土倉)麻や星野(吉川)綾子など)に声がかけられたほか一般公募もされたが、「公募」は結局コネ採用ばかりで総理大臣の次女と三女、日本オリンピック委員会長の長女、日立製作所顧問の長女など大会関係者の子女が数多く含まれていた。コンパニオンの一人の西村亜希子は、報知新聞の企画で対談したプロ野球・読売ジャイアンツの長嶋茂雄と1965年(昭和40年)に結婚した。
- 公募で決まった公式標語は「世界は一つ東京オリンピック」。名古屋の中学生の作品。
- 1966年、アメリカ映画『歩け走るな!』(コロムビア映画、チャールズ・ウォルタース監督、ケーリー・グラント主演)が制作・公開された。オリンピックを含めた当時の東京の様相が色濃く描かれている。
- 日本国内ではチケットの売れ行きが好調で種目によっては徹夜で売り場に並ぶなどの現象も見られた。しかし海外におけるチケットの売れ行きはあまり良くなかった。当初の割り当て分を全て完売したのは大韓民国(韓国)のみでそれ以外の国々では競技によっては完売したチケットがあったが、全て完売した国は無かった。その理由について「チケットを買ってもホテルが予約できないので行けない」という声が多かったという[47]。日本と韓国はまだ外交関係を結んでいなかったが[注釈 6]、北朝鮮と異なり、韓国は東京五輪に参加した。
- 日本中の関心がオリンピックに集中したため、プロ野球もこれに配慮して公式戦の日程を前倒しして消化し、日本選手権シリーズの日程もプロ野球史上最も早い9月29日開幕、第7戦予定は10月7日としていたが、南海ホークスと阪神タイガースの関西圏チーム同士で争われた実際の1964年の日本シリーズは10月1日開幕となった上、雨天による試合延期や両チームが3勝ずつで並ぶ接戦などもあって、阪神甲子園球場で行われた第7戦はオリンピック開会式当日の10月10日の夜となり、注目度は大きく下がった[注釈 7]。
- 開催期間中に国立霞ヶ丘陸上競技場の織田ポールに翻った五輪旗は、アベリー・ブランデージIOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈されたのち、安川が母校の福岡県立修猷館高等学校に寄贈した。かつては運動会の入場行進に使用されたが、現在はレプリカを使用して現物は同校の資料館に額入りで展示されている。
注釈
- ^ 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
- ^ 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
- ^ この競走で3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダ(ピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、背番号から『ゼッケン67』と題して小学校国語の教材になる)。
- ^ 1964年東京オリンピックのサッカー競技のために改装工事が行われた。
- ^ 「オリンピック・デー クーベルタン生誕100周年記念」プログラム
- ^ 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
- ^ 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。
出典
- ^ 第18回オリンピック競技大会公式報告書 上 オリンピック東京大会組織委員会
- ^ 朝日新聞.1954年(昭和29年)10月10日,6面.
- ^ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
- ^ 大毎ニュース 603 オリンピックに時の氏神 1963.02.13 放送ライブラリ
- ^ JOC年表 1961 - 1970
- ^ オリンピック東京大会組織委員会「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」『会報東京オリンピック第2号』1960年6月23日、p4~10
- ^ 『朝日新聞』2013年10月16日「教えて!東京五輪1⃣ 秋開催できないの?」
- ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p6
- ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p9
- ^ データde五輪 競技会場(3)建設整備費 当初設備投資計画では新設火2635億円 改良費98億円 - 日刊スポーツ、2015年6月22日
- ^ オリンピックを支えた募金活動 - JOC
- ^ 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」
- ^ 所蔵品の紹介 - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
- ^ a b オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン 東京デザイン2020フォーラム
- ^ 秀英体のコネタ 第28回 奇跡の普遍性 Helvetica forever: Story of a Typeface ヘルベチカ展 DNP 大日本印刷株式会社
- ^ “美の巨人たち|2014/07/05(土)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。
- ^ 1964年東京オリンピックポスター - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol.2」(文:三上孝道)
- ^ 亀倉雄策が東京五輪で示した、デザインの力。 2013年11月号 宣伝会議
- ^ 雑誌「デザインの現場」1998年No.100
- ^ 五輪エンブレムの知られざる歴史 NHK総合【おはよう日本】JCCテレビ 2016年4月25日
- ^ 東京五輪エンブレムの陰に「伝説のポスター」 巨匠・亀倉雄策の偉業 - withnews
- ^ 1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち - NHK
- ^ 2014/10/10 『SAYONARA国立競技場 56年の軌跡 1958−2014』 181頁
- ^ 競技ひと目で 1964の心 東京五輪ピクトグラム 東京新聞 2019年3月12日 夕刊
- ^ 伊原久裕、「1960年代の日本のグラフィックデザインにおけるアイソタイプの受容」『デザイン理論』 2014年8月31日 64巻 P.9-P.22, 意匠学会
- ^ 東京2020オリンピックピクトグラムの発表について 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日
- ^ ひと目で分かる64年-20年版ピクトグラム比較 日刊スポーツ 2019年3月12日
- ^ 2019年12月13日中日新聞朝刊16面
- ^ 『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』(安城寿子著、光文社新書、2019年)
- ^ a b c d e 安城寿子 (2016年9月6日). “64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か”. Yahoo!ニュース編集部. Yahoo! JAPAN. 2016年9月6日閲覧。
- ^ a b “64年五輪の公式服考案者が判明 故石津さん説塗り替え”. 中日新聞 CHUNICHI Web. 中日新聞社 (2016年9月6日). 2016年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ 遠山周平 (2016年9月2日). “1964東京五輪の赤いブレザーを巡るVAN石津謙介とテーラー集団の知られざる暗闘!?”. Byron. INCLUSIVE. 2016年9月6日閲覧。
- ^ 遠山周平 (2016年8月30日). “VOL.15 6年後の東京オリンピックを控えて 1964年の東京ブレザーをおさらいする”. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2014年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ “町会の歩み”. 小川町三丁目西町会 (2006年5月). 2016年9月15日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ a b c 朝日ソノラマ「オリンピックの歌」1964年9月発行 ソノシート 「オリンピック音楽作品について」NHK第二音楽部長、近藤積
- ^ 柴田葵「東京オリンピック芸術展示にみる対外文化戦略」 2020年11月8日閲覧。
- ^ 伝説の名勝負紹介サイト - ウェイバックマシン(2014年2月15日アーカイブ分)
- ^ NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」 - ウェイバックマシン(2013年12月30日アーカイブ分)
- ^ a b “前回東京五輪、直前まで国民は冷めていた”. 時事通信. 2021年9月11日閲覧。
- ^ 別府育郎「先入観」を疑え(産経新聞 2021年6月29日)
- ^ 内藤陽介『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』雄山閣 2001年 ISBN 9784803503166 [要ページ番号]
- ^ 井上一希 (2020年9月10日). “東京オリンピックで北朝鮮が金メダルを狙える競技とは?”. コリアワールドタイムズ. 2020年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月19日閲覧。
- ^ 2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
- ^ 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)。33巻 2003, pp. 171–196に所収
- ^ a b 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。33巻 2003, pp. 171–174に所収
- ^ 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(来日歓迎レセプションで「シンボル・オブ・リコグニッション」を授与、ローマ大会・東京大会のオリンピアン(体操)に「シンボル・オブ・リコグニッション」授与)
- ^ 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事
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