1964年東京オリンピック
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楽曲
東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた[36]。これらの曲は前年のオリンピックデーで披露された[注釈 5]。
- 「オリンピック東京大会ファンファーレ」(作曲:今井光也)
- 「オリンピック東京大会讃歌(A)」(作詞:佐藤春夫、作曲:清水脩)
- 「オリンピック東京大会讃歌(B)」(作詞:西条八十、作曲:小倉朗)
- 「オリンピック賛歌」(作詞:コスティス・パロマ、訳詞:野上彰、作曲:スピロ・サマラ、オーケストラ編曲:古関裕而)
- 「オリンピック・マーチ」(作曲:古関裕而)
「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった[36]。
オリンピック東京大会讃歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の(A)、閉会式用の(B)の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。
選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。
この他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:黛敏郎)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。
国民の五輪への関心を高めるために、日本放送協会 (NHK)がオリンピック東京大会組織委員会、日本体育協会、東京都の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された[36]。
- 「東京五輪音頭」(作詞:宮田隆、作曲:古賀政男、歌:三波春夫・橋幸夫・つくば兄弟・神楽坂浮子・三橋美智也・坂本九・北島三郎・畠山みどり・大木伸夫・司富子)
- 「海をこえて友よきたれ」(作詞:土井一郎、作曲:飯田三郎)
これとは別に、日本ビクターが公募して日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都が選定し、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都、文部省、日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援で1962年5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。
- 「東京オリンピックの歌「この日のために」」(作詞:鈴木義夫、補作:勝承夫、作曲:福井文彦、編曲:飯田信夫、歌:三浦洸一・安西愛子・ビクター合唱団)ビクターレコードVS-693 (JES-3408)
- 「東京オリンピック音頭」(作詞:山川茂男、補作:佐伯孝夫、作曲:馬飼野曻、編曲:寺岡真三、歌:橋幸夫・市丸・松島アキラ・神楽坂浮子・ビクター少年民謡会)VS-693 (JES-3409)
オリンピックの開催時期には芸術展示として、多くの日本の芸術作品が披露された[37]。
注釈
- ^ 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
- ^ 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
- ^ この競走で3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダ(ピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、背番号から『ゼッケン67』と題して小学校国語の教材になる)。
- ^ 1964年東京オリンピックのサッカー競技のために改装工事が行われた。
- ^ 「オリンピック・デー クーベルタン生誕100周年記念」プログラム
- ^ 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
- ^ 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。
出典
- ^ 第18回オリンピック競技大会公式報告書 上 オリンピック東京大会組織委員会
- ^ 朝日新聞.1954年(昭和29年)10月10日,6面.
- ^ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
- ^ 大毎ニュース 603 オリンピックに時の氏神 1963.02.13 放送ライブラリ
- ^ JOC年表 1961 - 1970
- ^ オリンピック東京大会組織委員会「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」『会報東京オリンピック第2号』1960年6月23日、p4~10
- ^ 『朝日新聞』2013年10月16日「教えて!東京五輪1⃣ 秋開催できないの?」
- ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p6
- ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p9
- ^ データde五輪 競技会場(3)建設整備費 当初設備投資計画では新設火2635億円 改良費98億円 - 日刊スポーツ、2015年6月22日
- ^ オリンピックを支えた募金活動 - JOC
- ^ 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」
- ^ 所蔵品の紹介 - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
- ^ a b オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン 東京デザイン2020フォーラム
- ^ 秀英体のコネタ 第28回 奇跡の普遍性 Helvetica forever: Story of a Typeface ヘルベチカ展 DNP 大日本印刷株式会社
- ^ “美の巨人たち|2014/07/05(土)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。
- ^ 1964年東京オリンピックポスター - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol.2」(文:三上孝道)
- ^ 亀倉雄策が東京五輪で示した、デザインの力。 2013年11月号 宣伝会議
- ^ 雑誌「デザインの現場」1998年No.100
- ^ 五輪エンブレムの知られざる歴史 NHK総合【おはよう日本】JCCテレビ 2016年4月25日
- ^ 東京五輪エンブレムの陰に「伝説のポスター」 巨匠・亀倉雄策の偉業 - withnews
- ^ 1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち - NHK
- ^ 2014/10/10 『SAYONARA国立競技場 56年の軌跡 1958−2014』 181頁
- ^ 競技ひと目で 1964の心 東京五輪ピクトグラム 東京新聞 2019年3月12日 夕刊
- ^ 伊原久裕「1960年代の日本のグラフィックデザインにおけるアイソタイプの受容」『デザイン理論』第64巻、意匠学会、2014年8月、9-22頁、CRID 1390577043854171904、doi:10.18910/56310、hdl:11094/56310、ISSN 09101578。
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- ^ 東京2020オリンピックピクトグラムの発表について 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日
- ^ ひと目で分かる64年-20年版ピクトグラム比較 日刊スポーツ 2019年3月12日
- ^ 2019年12月13日中日新聞朝刊16面
- ^ 『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』(安城寿子著、光文社新書、2019年)
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- ^ 遠山周平 (2016年9月2日). “1964東京五輪の赤いブレザーを巡るVAN石津謙介とテーラー集団の知られざる暗闘!?”. Byron. INCLUSIVE. 2016年9月6日閲覧。
- ^ 遠山周平 (2016年8月30日). “VOL.15 6年後の東京オリンピックを控えて 1964年の東京ブレザーをおさらいする”. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2014年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ “町会の歩み”. 小川町三丁目西町会 (2006年5月). 2016年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ a b c 朝日ソノラマ「オリンピックの歌」1964年9月発行 ソノシート 「オリンピック音楽作品について」NHK第二音楽部長、近藤積
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- ^ 伝説の名勝負紹介サイト - ウェイバックマシン(2014年2月15日アーカイブ分)
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- ^ a b “前回東京五輪、直前まで国民は冷めていた”. 時事通信. 2021年9月11日閲覧。
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- ^ 2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
- ^ 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)。33巻 2003, pp. 171–196に所収
- ^ a b 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。33巻 2003, pp. 171–174に所収
- ^ 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(来日歓迎レセプションで「シンボル・オブ・リコグニッション」を授与、ローマ大会・東京大会のオリンピアン(体操)に「シンボル・オブ・リコグニッション」授与)
- ^ 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事
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