1964年東京オリンピック 会期選定の議論

1964年東京オリンピック

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会期選定の議論

東京が1964年夏季オリンピックの開催権を獲得した1959年の時点では、日本側の準備委員会は会期について、過去の気象データで晴天が多い時期である、7月25日~8月9日と10月17日~11月1日の2案を提案した。しかし、その後の検討では、5~6月案が浮上した。9月ごろには、日本に台風が上陸しやすく、1959年の伊勢湾台風で大きな被害が発生したこと。東京で開催された1958年アジア競技大会の成功が、5~6月の日本の初夏の爽やかな気候も一因だったことが理由である。東京オリンピック組織委員会は、1960年2月にサンフランシスコで開催された第56回IOC総会で、5~6月案を追加した会期案を検討中であると明らかにした。

1960年2月に組織委員会は、下部機関の競技特別委員会に会期を研究する小委員会を設けた。小委員会には、各競技団体の代表、気象・海象・生理・衛生の専門家が参加した。春(5、6月)、夏(7、8月)、秋(10月)の3案のうち、夏は湿度が高いことから、最初に除外された。外国選手は、日本の夏の湿度は、欧米では全く経験できないので、最も忌避していた。5月案と10月案には、一長一短があった。気象データでは、雨の出現確率、晴または曇の出現平均確率で見れば、10月のほうがやや有利だが、台風の被害は9月に集中しやすい。台風によって日本のどこかに大きな被害があった直後に、莫大な経費を必要とするオリンピックを開催することは、国民的な感情として許されるかどうか。10月に会期が決まり8~9月に台風があった場合、台風の時期は各国の選手や用具が日本へ向け海・空路による輸送の途上にあたり、この輸送が円滑に行くのか。ヨットボートが到着後、台風による被害を完全に防止できるのか。台風後は必ず伝染病がまん延しているなどの懸念が指摘された。

東京オリンピック関連道路の整備は、用地の買収に隘路があり、会期が遅いほど都合がよいので、関係者は10月案を希望した。日本体育協会の選手強化対策本部は、「特殊環境が選手の運動に一般的に悪い影響を及ぼし、記録の上での成果が多く期待できない」「伝染病に弱い外国選手、観光客に不測の事態を発生する恐れがある」として、夏は除外されるべきだとした。小委員会は、1960年4月28日に総務委員会を経て組織委員会に答申し、5月23日~6月7日、10月3~18日の2案を提示した。総務委員会では、台風中の輸送を考慮し、10月18日~11月1日が適当であるとの意見書が附された。

諸外国のオリンピック関係者では、会期について多様な意見があった。ヨーロッパ諸国の関係者からは、5月案に否定的な意見が多かった。イギリスのエクゼターIOC委員は、「スカンジナビア半島の国々の場合を考えてみよう。彼等の国は1年の初めの部分(1月から3月の意)は雪に覆われている。だが私は彼等の国の選手が春までにベスト・コンディションに達するかどうかを疑わしいと思う」と述べた。イタリア・オリンピック委員会筋は、「イタリアはじめヨーロッパ諸国では、選手は春にトレーニングを始める。選手たちは大半が学生であって本格的なトレーニングは学期が大体終った頃に始めるのだ。その時期が5月に当るのである」と述べた。一方で、オーストラリアアルゼンチンフィリピンインドなどの関係者は、5月案を支持した[6]。こうした議論を経て、最終的に会期は10月10~24日に決定した。

のちの2020年東京オリンピックでは、当初の会期は2020年7月24日(一部競技は22日)~8月9日だったが、1年延期で2021年7月23日(一部競技は21日)~8月8日となった。この開催都市選考では、IOCが立候補都市に対して、会期が7月15日~8月31日におさまるように要求していた。秋はヨーロッパならサッカー、アメリカはメジャーリーグが佳境を迎え、アメリカンフットボールNFLと競合し、テレビの放映枠で人気プロスポーツとの争奪戦を避けるのが目的だった[7]。このことから、夏の暑さを避けるために、秋開催を選択した1964年オリンピックを評価する声がある。しかし、当時と後世では、事情が異なっている点もある。1964年オリンピックの会期検討についての文献では、次のような記述があった。

「高温高湿によって最も困難な競技はバスケット体操レスリングボクシング重量挙げおよびフェンシングの屋内競技である。殊にフェンシングは、危険防止のためにベスト(フェンシングのユニフォーム)を着用し身体を外気から隔離するため、熱の放出(汗)は逆に身体に圧力となってくる。したがってオリンピックともなれば、上記の6種目の室内競技場はすべて完全な冷房をほどこさなければならない。3,000~15,000人を収容した室内競技場を、常に快適な20℃前後に調節することは容易でなく、例え出来たとしても莫大な費用が必要である。」

「第2の理由は夏季は環境衛生上、各種伝染病および中毒の最盛期であって、殊に欧米人は、日本に多い赤痢に対する免疫性が少なく罹病率が大」[8]

その後の日本では、建物の冷房が日常的なものとなり、室内競技場での暑さ問題は解消された。2020年オリンピックでは、暑さ対策は屋外競技に焦点が置かれるようになり、開催準備段階でマラソン競歩会場が札幌市に変更されるなどの対策が実施された。また、その後の日本では、赤痢が減少している。

台風については、前述した伊勢湾台風など、1950~60年代ごろの日本では、死者が1千人を超える台風被害がたびたび発生していたが、その後は天気予報治水対策の発達で、死者は減少傾向である。しかし、秋には台風リスクが存在している点は変わらない。令和元年東日本台風(2019年)では、10月12日に日本へ上陸し、関東地方などで記録的な大雨を降らせ、被害をもたらした。もし東京オリンピックが2019年に開催され、開幕日が1964年オリンピックと同じく10月10日だったならば、会期中に大型台風の直撃を受けていたことになる。1964年オリンピックの会期検討で、10月案について、台風が「万一開催地の東京地区に開会前に襲来した場合、大会全般の運営に大きな支障を来し、アジアにおける世紀の祭典も一夜にして崩れ去ることもあえて誇張ではない」[9]と指摘されていたことは、現代でもあてはまる。


注釈

  1. ^ 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
  2. ^ 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
  3. ^ この競走で3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、背番号から『ゼッケン67』と題して小学校国語の教材になる)。
  4. ^ 1964年東京オリンピックのサッカー競技のために改装工事が行われた。
  5. ^ 「オリンピック・デー クーベルタン生誕100周年記念」プログラム
  6. ^ 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
  7. ^ 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。

出典

  1. ^ 第18回オリンピック競技大会公式報告書 上 オリンピック東京大会組織委員会
  2. ^ 朝日新聞1954年(昭和29年)10月10日,6面.
  3. ^ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
  4. ^ 大毎ニュース 603 オリンピックに時の氏神 1963.02.13 放送ライブラリ
  5. ^ JOC年表 1961 - 1970
  6. ^ オリンピック東京大会組織委員会「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」『会報東京オリンピック第2号』1960年6月23日、p4~10
  7. ^ 『朝日新聞』2013年10月16日「教えて!東京五輪1⃣ 秋開催できないの?」
  8. ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p6
  9. ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p9
  10. ^ データde五輪 競技会場(3)建設整備費 当初設備投資計画では新設火2635億円 改良費98億円 - 日刊スポーツ、2015年6月22日
  11. ^ オリンピックを支えた募金活動 - JOC
  12. ^ 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」
  13. ^ 所蔵品の紹介 - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
  14. ^ a b オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン 東京デザイン2020フォーラム
  15. ^ 秀英体のコネタ 第28回 奇跡の普遍性 Helvetica forever: Story of a Typeface ヘルベチカ展 DNP 大日本印刷株式会社
  16. ^ 美の巨人たち|2014/07/05(土)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。
  17. ^ 1964年東京オリンピックポスター - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol.2」(文:三上孝道)
  18. ^ 亀倉雄策が東京五輪で示した、デザインの力。 2013年11月号 宣伝会議
  19. ^ 雑誌「デザインの現場」1998年No.100
  20. ^ 五輪エンブレムの知られざる歴史 NHK総合【おはよう日本】JCCテレビ 2016年4月25日
  21. ^ 東京五輪エンブレムの陰に「伝説のポスター」 巨匠・亀倉雄策の偉業 - withnews
  22. ^ 1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち - NHK
  23. ^ 2014/10/10 『SAYONARA国立競技場 56年の軌跡 1958−2014』 181頁
  24. ^ 競技ひと目で 1964の心 東京五輪ピクトグラム 東京新聞 2019年3月12日 夕刊
  25. ^ 伊原久裕、「1960年代の日本のグラフィックデザインにおけるアイソタイプの受容」『デザイン理論』 2014年8月31日 64巻 P.9-P.22, 意匠学会
  26. ^ 東京2020オリンピックピクトグラムの発表について 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日
  27. ^ ひと目で分かる64年-20年版ピクトグラム比較 日刊スポーツ 2019年3月12日
  28. ^ 2019年12月13日中日新聞朝刊16面
  29. ^ 『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』(安城寿子著、光文社新書、2019年)
  30. ^ a b c d e 安城寿子 (2016年9月6日). “64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か”. Yahoo!ニュース編集部. Yahoo! JAPAN. 2016年9月6日閲覧。
  31. ^ a b 64年五輪の公式服考案者が判明 故石津さん説塗り替え”. 中日新聞 CHUNICHI Web. 中日新聞社 (2016年9月6日). 2016年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
  32. ^ 遠山周平 (2016年9月2日). “1964東京五輪の赤いブレザーを巡るVAN石津謙介とテーラー集団の知られざる暗闘!?”. Byron. INCLUSIVE. 2016年9月6日閲覧。
  33. ^ 遠山周平 (2016年8月30日). “VOL.15 6年後の東京オリンピックを控えて 1964年の東京ブレザーをおさらいする”. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2014年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
  34. ^ 町会の歩み”. 小川町三丁目西町会 (2006年5月). 2016年9月15日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
  35. ^ a b c 朝日ソノラマ「オリンピックの歌」1964年9月発行 ソノシート 「オリンピック音楽作品について」NHK第二音楽部長、近藤積
  36. ^ 柴田葵「東京オリンピック芸術展示にみる対外文化戦略」 2020年11月8日閲覧。
  37. ^ 伝説の名勝負紹介サイト - ウェイバックマシン(2014年2月15日アーカイブ分)
  38. ^ NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」 - ウェイバックマシン(2013年12月30日アーカイブ分)
  39. ^ a b 前回東京五輪、直前まで国民は冷めていた”. 時事通信. 2021年9月11日閲覧。
  40. ^ 別府育郎「先入観」を疑え(産経新聞 2021年6月29日)
  41. ^ 内藤陽介『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』雄山閣 2001年 ISBN 9784803503166 [要ページ番号]
  42. ^ 井上一希 (2020年9月10日). “東京オリンピックで北朝鮮が金メダルを狙える競技とは?”. コリアワールドタイムズ. 2020年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月19日閲覧。
  43. ^ 2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
  44. ^ 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)。33巻 2003, pp. 171–196に所収
  45. ^ a b 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。33巻 2003, pp. 171–174に所収
  46. ^ 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(来日歓迎レセプションで「シンボル・オブ・リコグニッション」を授与ローマ大会・東京大会のオリンピアン(体操)に「シンボル・オブ・リコグニッション」授与
  47. ^ 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事





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