1964年東京オリンピック
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大会開催までの経緯
1940年(昭和15年)の夏季大会の開催権[注釈 1] を返上した東京は、第二次世界大戦終結の9年後の1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した[2]。しかし、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。
次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。
得票数は東京が半数を超える34票、アメリカ合衆国のデトロイトが10票、オーストリアのウィーンが9票、ベルギーのブリュッセルが5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走した日系アメリカ人の実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。
1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務め東京招致を主導していた田畑政治は、オリンピック招致費用が2013年現在の価格に換算して約1200億円かかることを懸念していた岸信介首相へ観光収入も見込めると直談判した[3]。
都市 | 国 | 投票数 |
---|---|---|
東京 | ![]() |
34 |
デトロイト | ![]() |
10 |
ウィーン | ![]() |
9 |
ブリュッセル | ![]() |
5 |
開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」(会長:津島寿一、事務総長:田畑政治)が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった[注釈 2]。
開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。
組織委員会では、津島と田畑が第4回アジア大会参加問題で1962年10月に引責辞任。後に安川第五郎が組織委員会会長、与謝野秀が事務総長となった[4][5]。政府側においても、オリンピック担当国務大臣の職を置き川島正次郎を任命、1964年7月第3次池田内閣で河野一郎が就任した。
注釈
- ^ 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
- ^ 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
- ^ この競走で3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダ(ピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、背番号から『ゼッケン67』と題して小学校国語の教材になる)。
- ^ 1964年東京オリンピックのサッカー競技のために改装工事が行われた。
- ^ 「オリンピック・デー クーベルタン生誕100周年記念」プログラム
- ^ 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
- ^ 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。
出典
- ^ 第18回オリンピック競技大会公式報告書 上 オリンピック東京大会組織委員会
- ^ 朝日新聞.1954年(昭和29年)10月10日,6面.
- ^ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
- ^ 大毎ニュース 603 オリンピックに時の氏神 1963.02.13 放送ライブラリ
- ^ JOC年表 1961 - 1970
- ^ オリンピック東京大会組織委員会「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」『会報東京オリンピック第2号』1960年6月23日、p4~10
- ^ 『朝日新聞』2013年10月16日「教えて!東京五輪1⃣ 秋開催できないの?」
- ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p6
- ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p9
- ^ データde五輪 競技会場(3)建設整備費 当初設備投資計画では新設火2635億円 改良費98億円 - 日刊スポーツ、2015年6月22日
- ^ オリンピックを支えた募金活動 - JOC
- ^ 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」
- ^ 所蔵品の紹介 - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
- ^ a b オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン 東京デザイン2020フォーラム
- ^ 秀英体のコネタ 第28回 奇跡の普遍性 Helvetica forever: Story of a Typeface ヘルベチカ展 DNP 大日本印刷株式会社
- ^ “美の巨人たち|2014/07/05(土)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。
- ^ 1964年東京オリンピックポスター - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol.2」(文:三上孝道)
- ^ 亀倉雄策が東京五輪で示した、デザインの力。 2013年11月号 宣伝会議
- ^ 雑誌「デザインの現場」1998年No.100
- ^ 五輪エンブレムの知られざる歴史 NHK総合【おはよう日本】JCCテレビ 2016年4月25日
- ^ 東京五輪エンブレムの陰に「伝説のポスター」 巨匠・亀倉雄策の偉業 - withnews
- ^ 1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち - NHK
- ^ 2014/10/10 『SAYONARA国立競技場 56年の軌跡 1958−2014』 181頁
- ^ 競技ひと目で 1964の心 東京五輪ピクトグラム 東京新聞 2019年3月12日 夕刊
- ^ 伊原久裕、「1960年代の日本のグラフィックデザインにおけるアイソタイプの受容」『デザイン理論』 2014年8月31日 64巻 P.9-P.22, 意匠学会
- ^ 東京2020オリンピックピクトグラムの発表について 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日
- ^ ひと目で分かる64年-20年版ピクトグラム比較 日刊スポーツ 2019年3月12日
- ^ 2019年12月13日中日新聞朝刊16面
- ^ 『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』(安城寿子著、光文社新書、2019年)
- ^ a b c d e 安城寿子 (2016年9月6日). “64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か”. Yahoo!ニュース編集部. Yahoo! JAPAN. 2016年9月6日閲覧。
- ^ a b “64年五輪の公式服考案者が判明 故石津さん説塗り替え”. 中日新聞 CHUNICHI Web. 中日新聞社 (2016年9月6日). 2016年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ 遠山周平 (2016年9月2日). “1964東京五輪の赤いブレザーを巡るVAN石津謙介とテーラー集団の知られざる暗闘!?”. Byron. INCLUSIVE. 2016年9月6日閲覧。
- ^ 遠山周平 (2016年8月30日). “VOL.15 6年後の東京オリンピックを控えて 1964年の東京ブレザーをおさらいする”. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2014年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ “町会の歩み”. 小川町三丁目西町会 (2006年5月). 2016年9月15日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
- ^ a b c 朝日ソノラマ「オリンピックの歌」1964年9月発行 ソノシート 「オリンピック音楽作品について」NHK第二音楽部長、近藤積
- ^ 柴田葵「東京オリンピック芸術展示にみる対外文化戦略」 2020年11月8日閲覧。
- ^ 伝説の名勝負紹介サイト - ウェイバックマシン(2014年2月15日アーカイブ分)
- ^ NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」 - ウェイバックマシン(2013年12月30日アーカイブ分)
- ^ a b “前回東京五輪、直前まで国民は冷めていた”. 時事通信. 2021年9月11日閲覧。
- ^ 別府育郎「先入観」を疑え(産経新聞 2021年6月29日)
- ^ 内藤陽介『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』雄山閣 2001年 ISBN 9784803503166 [要ページ番号]
- ^ 井上一希 (2020年9月10日). “東京オリンピックで北朝鮮が金メダルを狙える競技とは?”. コリアワールドタイムズ. 2020年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月19日閲覧。
- ^ 2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
- ^ 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)。33巻 2003, pp. 171–196に所収
- ^ a b 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。33巻 2003, pp. 171–174に所収
- ^ 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(来日歓迎レセプションで「シンボル・オブ・リコグニッション」を授与、ローマ大会・東京大会のオリンピアン(体操)に「シンボル・オブ・リコグニッション」授与)
- ^ 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事
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