1964年東京オリンピック デザイン

1964年東京オリンピック

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デザイン

開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた赤坂離宮赤坂迎賓館)に、デザイン室が開設された。入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。多くは20代後半から30代前半のデザイナーだった[14]

オリンピックに際して原弘が、「ノイエ・ハース・グロテスクヘルベチカの前身に当たる)というサンセリフ体を使いたい」と大日本印刷に打診、市谷工場に導入された[15]

ポスター

東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会のオリンピックポスターがイラストであったのを、グラフィックデザイナー亀倉雄策のデザイン(文字は原弘)、ストロボ写真演出早崎治、ディレクター村越襄で、オリンピックポスター初の写真ポスターである[16]。ポスターは全部で4種類が制作された[17]

第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964のイラスト。6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた[14][18][19]、亀倉(文字は原弘)の大会エンブレムと同じデザインだった。赤と金の配色は豊臣秀吉陣羽織(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる[20][21]。オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定した[22]

1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった[23]

ピクトグラム

まず競技種目ピクトグラム計20種が前年に作られ、1964年に入ってから施設用ピクトグラム計39種の制作が始まった[24]

案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。外国語(特に公用語のフランス語英語)によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。

競技種目ピクトグラムを制作したのは、日本デザインセンターの山下芳郎1人である[25][26]。ヨット競技のみは人間を描かず、柔道・ウェイトリフティングの2つは正面図。残りの競技は右向きの1選手を描写した(レスリングのみ2選手が組む横からの図)。サッカー・バレー・バスケ・水球のボールは、各およそ右端中段寄りに配置された。

東京2020オリンピックでは、1964年大会の競技種目ピクトグラムを先人へのリスペクトともに継承・進化させたものと位置づけて[27]、右向きに統一させず、左向きのデザインも混在させた[28]

日本選手団のユニホーム

東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。日本選手団の制服を松坂屋上野店が受注[29]

  • 開会式・閉会式用ユニホーム(デレゲーションユニホーム)
    • ヘルシンキオリンピックから選手団公式服装を手がけてきた神田の洋服商であった望月靖之が4年以上掛けてデザインしたもの[30][31][32][33][34]。このユニホームの名称は「1964年オリンピック東京大会日本選手団ブレイザーコート」[31]、通称「式典用ブレザー」と呼ばれ男女共に上着は真紅のマットウーステッド地に金色の三つボタン、そして左胸にはポケットが付いておりその部分に日の丸のワッペンと金糸で五輪が刺繍されていた。下半身は男子は純白のズボン、女子は純白のアコーディオン・ブリーツをスカートにしたもの。帽子は純白地に赤いアクセントの付いたものが採用されている[31]。生地は大同毛織、製作は当時結成されたジャパンスポーツウェアクラブが担当し、全て手縫いで縫製されている[31][35]。靴は男子は純白のエナメル地の紳士靴。女子は白色のローヒール。そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。石津謙介がデザインしたと言うのが通説となっていたが、研究者の調査によって望月靖之がデザインしたという多数の裏付けが可能な資料の存在が判明した[31][32]
  • 選手村などで着るユニホーム
    • 開会式・閉会式用ユニホームと基本的に同じデザインだがダークカラーが採用されて地味になっている。下半身は男子はグレーのズボン、女子も色はグレーでボックス・ブリーツをスカートにしたもの。靴は男子は黒色の紳士靴。女子も黒色のローヒール。前述の式典用と同様に女子だけ純白のショルダーバッグが採用されている。
  • トレーニングウェア
    • 大会会場などで試合時以外に着用するトレーニングウェア。男女共に同じデザインで、赤色を基本に方から袖、わきの下からパンツの裾まで、身体の両側の側線に沿うようなラインで白い筋が入っている。そして胸と背中に白色のローマ字で「NIPPON」と書かれている。素材は100%化学繊維で出来ていた。

注釈

  1. ^ 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
  2. ^ 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
  3. ^ この競走で3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、背番号から『ゼッケン67』と題して小学校国語の教材になる)。
  4. ^ 1964年東京オリンピックのサッカー競技のために改装工事が行われた。
  5. ^ 「オリンピック・デー クーベルタン生誕100周年記念」プログラム
  6. ^ 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
  7. ^ 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。

出典

  1. ^ 第18回オリンピック競技大会公式報告書 上 オリンピック東京大会組織委員会
  2. ^ 朝日新聞1954年(昭和29年)10月10日,6面.
  3. ^ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
  4. ^ 大毎ニュース 603 オリンピックに時の氏神 1963.02.13 放送ライブラリ
  5. ^ JOC年表 1961 - 1970
  6. ^ オリンピック東京大会組織委員会「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」『会報東京オリンピック第2号』1960年6月23日、p4~10
  7. ^ 『朝日新聞』2013年10月16日「教えて!東京五輪1⃣ 秋開催できないの?」
  8. ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p6
  9. ^ 前掲「会期問題の焦点 大会が成功するか否かの鍵」p9
  10. ^ データde五輪 競技会場(3)建設整備費 当初設備投資計画では新設火2635億円 改良費98億円 - 日刊スポーツ、2015年6月22日
  11. ^ オリンピックを支えた募金活動 - JOC
  12. ^ 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」
  13. ^ 所蔵品の紹介 - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
  14. ^ a b オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン 東京デザイン2020フォーラム
  15. ^ 秀英体のコネタ 第28回 奇跡の普遍性 Helvetica forever: Story of a Typeface ヘルベチカ展 DNP 大日本印刷株式会社
  16. ^ 美の巨人たち|2014/07/05(土)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。
  17. ^ 1964年東京オリンピックポスター - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol.2」(文:三上孝道)
  18. ^ 亀倉雄策が東京五輪で示した、デザインの力。 2013年11月号 宣伝会議
  19. ^ 雑誌「デザインの現場」1998年No.100
  20. ^ 五輪エンブレムの知られざる歴史 NHK総合【おはよう日本】JCCテレビ 2016年4月25日
  21. ^ 東京五輪エンブレムの陰に「伝説のポスター」 巨匠・亀倉雄策の偉業 - withnews
  22. ^ 1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち - NHK
  23. ^ 2014/10/10 『SAYONARA国立競技場 56年の軌跡 1958−2014』 181頁
  24. ^ 競技ひと目で 1964の心 東京五輪ピクトグラム 東京新聞 2019年3月12日 夕刊
  25. ^ 伊原久裕「1960年代の日本のグラフィックデザインにおけるアイソタイプの受容」『デザイン理論』第64巻、意匠学会、2014年8月、9-22頁、CRID 1390577043854171904doi:10.18910/56310hdl:11094/56310ISSN 09101578 
  26. ^ 木田拓也「勝見勝のめざしたもの : 東京オリンピックの視覚伝達システム」『デザイン理論』第65巻、意匠学会、2015年2月、110-111頁、CRID 1390295568877446656doi:10.18910/56269hdl:11094/56269ISSN 09101578 
  27. ^ 東京2020オリンピックピクトグラムの発表について 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日
  28. ^ ひと目で分かる64年-20年版ピクトグラム比較 日刊スポーツ 2019年3月12日
  29. ^ 2019年12月13日中日新聞朝刊16面
  30. ^ 『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』(安城寿子著、光文社新書、2019年)
  31. ^ a b c d e 安城寿子 (2016年9月6日). “64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か”. Yahoo!ニュース編集部. Yahoo! JAPAN. 2016年9月6日閲覧。
  32. ^ a b 64年五輪の公式服考案者が判明 故石津さん説塗り替え”. 中日新聞 CHUNICHI Web. 中日新聞社 (2016年9月6日). 2016年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
  33. ^ 遠山周平 (2016年9月2日). “1964東京五輪の赤いブレザーを巡るVAN石津謙介とテーラー集団の知られざる暗闘!?”. Byron. INCLUSIVE. 2016年9月6日閲覧。
  34. ^ 遠山周平 (2016年8月30日). “VOL.15 6年後の東京オリンピックを控えて 1964年の東京ブレザーをおさらいする”. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2014年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
  35. ^ 町会の歩み”. 小川町三丁目西町会 (2006年5月). 2016年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月6日閲覧。
  36. ^ a b c 朝日ソノラマ「オリンピックの歌」1964年9月発行 ソノシート 「オリンピック音楽作品について」NHK第二音楽部長、近藤積
  37. ^ 柴田葵「東京オリンピック芸術展示にみる対外文化戦略」 2020年11月8日閲覧。
  38. ^ 伝説の名勝負紹介サイト - ウェイバックマシン(2014年2月15日アーカイブ分)
  39. ^ NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」 - ウェイバックマシン(2013年12月30日アーカイブ分)
  40. ^ a b 前回東京五輪、直前まで国民は冷めていた”. 時事通信. 2021年9月11日閲覧。
  41. ^ 別府育郎「先入観」を疑え(産経新聞 2021年6月29日)
  42. ^ 内藤陽介『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』雄山閣 2001年 ISBN 9784803503166 [要ページ番号]
  43. ^ 井上一希 (2020年9月10日). “東京オリンピックで北朝鮮が金メダルを狙える競技とは?”. コリアワールドタイムズ. 2020年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月19日閲覧。
  44. ^ 2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
  45. ^ 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)。33巻 2003, pp. 171–196に所収
  46. ^ a b 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。33巻 2003, pp. 171–174に所収
  47. ^ 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(来日歓迎レセプションで「シンボル・オブ・リコグニッション」を授与ローマ大会・東京大会のオリンピアン(体操)に「シンボル・オブ・リコグニッション」授与
  48. ^ 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事





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