紀元節 紀元節の制定まで

紀元節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 07:22 UTC 版)

紀元節の制定まで

8世紀初めに編まれた『日本書紀』によれば、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰」であり、日付は正月朔日、すなわち1月1日となる。

辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 — 『日本書紀』卷第三、神武紀

しかし、明治5年11月15日1872年12月15日)、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め(明治5年太政官布告第342号)、同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。(新暦による表示である)1873年1月29日は、新暦太陽暦グレゴリオ暦)で旧暦太陰太陽暦天保暦)のまま変えなかったときの明治6年1月1日に当たる日付(並行して二つの暦を進めた時に重なる日)である。折柄、明治5年12月2日1872年12月31日)の翌日をもって明治6年1月1日(1873年1月1日)とし、新暦が施行されることになっていた。

今般太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者[3]参朝可憚事

— 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)、[4]

第一月廿九日 神武天皇御即位相當日ニ付祝日ト被定例年御祭典被執行候事

— 「神武天皇御即位祝日例年御祭典」(明治5年太政官布告第344号)

1873年(明治6年)1月29日、神武天皇即位日を祝って、神武天皇御陵遙拝式が各地で行われた。同月、神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日)を祝日とする布告を出している。同年3月7日には、神武天皇即位日を「紀元節」と称することを定めた(明治6年太政官布告第91号)。

今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事

— 「五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第1号)

神武天皇御即位日紀元節ト被稱候事

— 「神武天皇御即位日紀元節ト稱セラル」(明治6年太政官布告第91号)

ところで、これらの太政官布告に先立って、明治5年11月9日(1872年12月9日)に出されていた太陽暦を施行する旨の太政官布告では、祭典等の日付は、旧暦の月日を新暦の月日には換算せずまったく同じ数字になるように施行するものと定めていた(明治5年太政官布告第337号)。

(略)
一 諸祭典等舊曆月日ヲ新曆月日ニ相當シ施行可致事
(略)

— 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号)抜粋

これは、祭典の執行日を新暦で固定し、毎年旧暦の月日から新暦の月日に換算する煩雑さを避けるための規定である。例えば、例年1月1日に新年を祝って行われる歳旦祭は、旧暦1月1日の新暦相当日ではなく新暦1月1日に行うということになる。

この規定の影響などもあって、紀元節は旧暦1月1日、すなわち旧正月を祝う祝日との誤解が国民のあいだに広まった。国民のこの反応を見て政府は、紀元節は神武天皇即位日を祝う祝日であるという理解が広まらないのではないかと考えた。また、1月29日では、孝明天皇の命日(慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった[5]

そこで、政府は、1873年(明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした(明治6年太政官布告第344号)。

年中祭日祝日等ノ休暇日左ノ通候條此旨布告候事
(略)
孝明天皇祭 一月三十日
紀元節 二月十一日
神武天皇祭 四月三日
(略)

— 「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344号)

2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。その具体的な計算方法は明らかにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。

干支紀年法は、後漢元和2年(ユリウス暦85年)に三統暦を廃止して以降は、60の周期で単純に繰り返すようになっている[6]神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の編年(720年(養老4年)に成立)を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦先発グレゴリオ暦)で紀元前660年立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」にならない。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日とした。なお、『日本書紀』はこの日が「」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。なお、現代の天文知識に基づき当時の月齢を計算すると、この日[7]は天文上の朔に当たるが、これは天文上の朔にあわせるため、庚辰の日を即位日としたと考えられている。


  1. ^ 四大節は、旧制度の4つの祭日で、紀元節(2月11日)、四方節(1月1日)、天長節明治節を指す。
  2. ^ 小野雅章「象徴天皇制下における祝日学校儀式の展開過程 : 復古的天皇観と象徴天皇観との相克」『教育學雑誌』第57巻、日本大学教育学会、2021年3月、1頁、doi:10.20554/nihondaigakukyouikugakkai.57.0_1ISSN 02884038CRID 1390850578954444160 
  3. ^ 「服者」(ぶくしゃ)とは、近親が死んだために、喪に服している者のこと。
  4. ^ 内閣官報局編『法令全書』、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー
  5. ^ この不都合を回避するため、1873年明治6年)の「孝明天皇御例祭」(孝明天皇の命日の祭祀)は、1月23日と定められた。
  6. ^ 三統暦までは木星の運行を考慮する「超辰法」が用いられた。
  7. ^ 天文学上の記法では−659年2月18日、ユリウス通日は1480407、ユリウス暦では紀元前660年2月18日となる。
  8. ^ たとえば、三笠宮崇仁親王は、科学的根拠に欠けると歴史学者としての立場から復活に批判的であった。
  9. ^ 大岡弘「『元始祭』並びに『紀元節祭』創始の思想的源流と二祭処遇の変遷について」『明治聖徳記念学会紀要』、復刊第46号、2009年、p113
  10. ^ 大岡弘「『元始祭』並びに『紀元節祭』創始の思想的源流と二祭処遇の変遷について」『明治聖徳記念学会紀要』、復刊第46号、2009年、p113
  11. ^ 三殿御拝”. 宮内庁. 2024年1月15日閲覧。
  12. ^ 「皇室祭祀と建国の心」 日本会議
  13. ^ 最近の内外情勢 2017年2月
  14. ^ 内外情勢の回顧と展望 令和二年(二〇二〇年)一月
  15. ^ 林青梧『「日本書紀」の暗号―真相の古代史』講談社、日本、1990年。ISBN 4062049635 
  16. ^ 富山市史編纂委員会編『富山市史 第二編』(p842)1960年4月 富山市史編纂委員会
  17. ^ 富山市史編纂委員会編『富山市史 第二編』(p900)1960年4月 富山市史編纂委員会
  18. ^ 山岸ら海軍側の三人も仮出所『東京朝日新聞』(昭和13年2月2日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p133 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年






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