琉球の朝貢と冊封の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/02 22:41 UTC 版)
朝貢と冊封の終焉
明治天皇による琉球藩王冊封
1869年、版籍奉還が行われた。しかし琉球は奉還を自主申請することはなく、奉還命令からも除外されていた。結果として琉球は版籍奉還の対象外という扱いとなった[265]。1871年には廃藩置県が断行され、琉球は暫定的に鹿児島県の管轄下に置かれた。このような中で問題となったのは清の冊封国であり、アメリカ等諸外国との条約も締結している琉球の取り扱いであった[266]。
明治政府内で琉球の処遇について協議が進められる中で浮かび上がってきたのが、明治天皇による琉球藩王冊封であった。これまで江戸幕府との間に結ばれてきた将軍と琉球国王との君臣関係を、天皇が尚泰を琉球藩王に冊封することによって、新たに天皇との君臣関係を定めるものであった[267]。これは東アジアの伝統である冊封を利用しながら、明治政府として琉球の処遇を整理していく端緒となった[268]。
1872年6月、琉球は鹿児島県側から王政復古を祝賀する使節の派遣を指示された。7月には鹿児島県から正式な使者が訪れ、王族を代表とする使節派遣を改めて命じた。使節は9月に東京に到着し、9月14日に明治天皇から尚泰は琉球藩王に冊封された。冊封後、琉球の所轄は鹿児島県から外務省へ移管された[269]。
明治天皇による尚泰の冊封後、すぐに琉球を巡る体制に大きな変化があったわけではない。当初、琉球を管轄する外務省は琉球が清と従来の関係を維持することを認めていて、外務卿の副島種臣も1873年の接貢船の派遣を従来通り認めるなど、進貢船、接貢船の派遣はこれまで通り継続されていた[270]。進貢、接貢時に福州の琉球館で行われる貿易も、薩摩藩から鹿児島県に変わったものの、江戸時代と同様に鹿児島側から統制される形態のまま続けられた[271]。
しかし征韓論による政変後、明治政府の事実上トップとなった大久保利通は東アジアの国家間に存在した伝統的秩序を解体する政策を押し進め、その中で琉球と清との関係の断絶、そして琉球処分へと導いていく[272]。
慶賀使の禁止と朝貢の終了
日本政府の琉球に対する対応に大きな影響を与えたのが、台湾出兵問題であった。出兵問題の発端となったのは1871年に発生した宮古島島民遭難事件であった[273]。明治政府としても事件後、いきなり出兵という強硬策が決まったわけではない。1873年3月には外務卿の副島種臣らが日清修好条規の交渉のために清に派遣されたが、その中で宮古島島民遭難事件の事件処理問題についても話し合われた。そして副島らの出張中に政府内では征韓論の議論が沸騰していた。結局岩倉使節団の帰国後、征韓論は退けられ、政争に負けた西郷隆盛らが下野する明治六年政変が起きる。その政変下、副島種臣も下野する[274]。
征韓論が退けられた後、急速に浮上したのが台湾出兵であった。出兵を主導した大久保利通や大隈重信としては、主として不平士族の不満を解消させることを目的として、征韓の代わりに台湾出兵を計画したのであるが、加えて日本領である琉球の住民が台湾で虐殺されたことに対する膺懲という名分を利用して、清と琉球との関係を断ち切る口実にしようと考えたのである[275]。
出兵は西郷従道を司令官として、1874年5月に台湾に上陸し、比較的短期間で戦争目的は達成した。しかし対清交渉を睨み、台湾での駐留を続けた。清は日本に出兵は自国領土への侵略であると激しい抗議を行い、結局大久保利通を全権とした使節を清に派遣して事後処理の交渉を行うことになった。交渉は難航し、決裂寸前にまで陥ったが、イギリスが仲介に入ったことによって両国の妥協が成立した。10月31日には台湾出兵は「日本国属民等」に台湾原住民が害を及ぼしたために日本が詰責したもので、義挙として行ったもので清としても不正な行為とは見なさないと規定した上で、清側が宮古島島民遭難事件の被害者救済と、作戦遂行に伴い日本軍が台湾に建設した道路等の買収費名目で補償金を支払うこと、日本側は台湾から即時撤兵することで合意した。実際問題として清が支払う補償金は少額であり、とても戦費を賄うに足りる額では無かったが、大久保は出兵の名目と保証金の支払いという名分が認められたことで妥協に応じた[276]。なお台湾出兵問題について交渉中であった1874年7月、琉球関連の業務は外務省から内務省に移管される[277]。
清との交渉の結果、琉球の住民は「日本国属民」であると規定し、出兵が義挙であると認めたことは、清から琉球が日本領であるとの言質を取ったことになるという主張を押し立てて、琉球側との交渉に利用していく。しかし清としてはあくまで琉球は冊封国の一つで、独立国であるとの見解を崩さなかった[278]。台湾出兵の事後処理を済ませ、1874年11月に帰国した大久保は早速琉球問題に取り掛かった。12月15日には太政大臣三条実美に琉球問題に関する意見書を提出している。大久保の意見書提出後、琉球側に高官の上京が命じられた。1875年3月末から上京した高官と大久保は交渉を繰り返すものの議論は平行線を辿った。5月には協議はいったん中断され、代わりに内務大丞松田道之が琉球に派遣されることになる。これは琉球側との直接交渉の必要性があったためであるが、もう一つ清への慶賀使の派遣問題がクローズアップされてきたためでもあった[279]。
この間、清では同治帝が亡くなり、光緒帝が即位していた。琉球としては慣例として亡くなった先帝のための進香使、そして新帝の即位を慶賀する慶賀使を派遣することになる。進香使と慶賀使の派遣が実行されたら、内外に改めて琉球が清の冊封国であることをアピールすることになる。日本側としては何としてでも使節派遣を止めなければならなかった。また1875年3月には前年派遣の進貢使が北京に到着した。その情報を聞きつけた日本側と清側との間に使節への対応を巡ってトラブルが発生した。事態を重く見た日本政府は進貢、慶賀使などの派遣、冊封使の受け入れを禁止し、琉球と清との外交関係を断絶させる決定をした。琉球に派遣された松田道之は7月14日に首里城を訪れ、琉球側に清への進貢、慶賀使などの遣使の禁止、そして清からの冊封使受け入れの禁止を命じた。結果として最後に清に派遣されたのは1874年派遣の進貢使であった[280]。
清の反発と琉球復旧運動
松田道之から進貢そして冊封使の受け入れ禁止を命じられた琉球側は、松田の帰京に同乗して上京した三司官の池城親方らが清との関係継続を求める請願活動を展開した。池城親方らは明治政府に対して嘆願書の提出を繰り返し、更には政府高官に直接嘆願行為を繰り返した。池城親方らの嘆願は全く効果が見られず、1876年5月には太政大臣三条実美の名で、池城親方らの退京命令が出された。しかし琉球側は替わりに三司官の富川親方らを上京させ、嘆願行為を止めなかった[281]。
その一方で1874年の進貢船以降、琉球の朝貢活動が停止したために、まず1875年に派遣予定であった接貢船が福州に到着しなかった。そして前述のように光緒帝の慶賀使も派遣されて来ない。琉球側の異変を感じ取った福州側から、接貢船の不着と慶賀使の未派遣について事情を尋ねる文書が届けられた。まず琉球側は明治政府に文書に回答したいとの要請を行ったが、回答は許されなかった。明治政府に対する嘆願は不調のままで、更に清側からの事情を確認する書状に対する返答も拒否されたため、琉球側は清に密使を派遣して窮状を訴えることにした[282]。
密使の代表者は尚泰の姉の婿である向徳宏(幸地朝常)であった。向らは1877年3月に福州に到着すると、早速清側に琉球の窮状について訴えた。情報を入手した清は、清側は北京駐在の日本公使に対して抗議を行うとともに、初代駐日大使として赴任する何如璋が日本側と交渉することになった。東京に赴任した何は、早速日本側に琉球の進貢を禁止した措置について激しく抗議した。何如璋は在京中の琉球関係者とも連絡を取り合い、ともに琉球の進貢禁止措置の撤回に向けて粘り強く運動を続けた。しかし日本側は琉球の問題は日本の内政問題であると、何の抗議に全く取り合わなかった[283]。またかつて琉球と条約を締結したアメリカ、フランスなどの駐日公使に対しても三司官が請願書を提出した。請願書は日本政府が行った進貢、慶賀使などの遣使の禁止、清からの冊封使受け入れの禁止の撤回を要求し、以前の日中両属状態に復帰出来るよう影響力を発揮するよう働きかけていた。しかし各国とも琉球側の立場に同情を示しながらも、結論としては日本の措置を黙認した[284]。
日本側は琉球がこれまで行ってきた進貢や清側からの冊封使の派遣は実がないものであると主張した。そして薩摩藩主の代替わりに際して新藩主に琉球国王と三司官が、薩摩藩の法令や制度に従う旨の起請文を提出してきたこと、薩摩藩に租税を支払っていたことを日本による琉球実効支配の例として示した[† 22][285]。
結局1879年3月27日、処分官に任命された松田道之は首里城で藩を廃し沖縄県とするとの琉球処分を宣告した。4月4日には公式に沖縄県の発足が公表される[286]。琉球処分時、清に派遣された密使の向徳宏らは、最後の進貢使であった毛精長とともに福州の琉球館に滞在していた。規則では琉球人は北京進貢時以外は福州周辺のみの活動しか許されていなかったが、琉球王国滅亡の知らせを受けて多くの琉球人が北京方面へ向けて移動し、琉球王国復活に向けて李鴻章など清の要人らに対し運動を開始する。この運動を琉球復旧運動と呼んだ[287]。
清国内で琉球復旧運動が行われている中、沖縄からはしばしば清へ密航し、武力行使を含めた清の介入を嘆願する動きが続いた。しかし1880年代後半以降になると琉球復旧運動を主導してきた向徳宏や毛精長らが相次いで亡くなるなど、運動も徐々に下火になっていった。結局琉球復旧運動は1895年、日清戦争で清が敗北することによって終焉を迎えていく[288]。
注釈
- ^ 波平(2014)p.25で説明されているように、中国の王朝中心の国際秩序についてはこれまで「冊封体制」、「朝貢体制」などと呼ばれてきたが、例えば李(2000)pp.28-32、pp.42-48は、冊封は中国の王朝と諸外国との関係性の一部でしかないことを指摘しており、壇上(2013)pp.304-308では、中国王朝と朝鮮、琉球、ベトナムなど冊封国との関係性もそれぞれ違いが見られ、「冊封体制論」等の概念を先行させて中国と周辺諸国との関係性を判断する危険性を指摘している等、「冊封体制」等の用語ひとつで説明できる関係性ではないとされているため、周辺諸国との関係等の用語を用いることにする。
- ^ 檀上(2016)pp.299-304では武寧が初の冊封ではなく、先代の察渡も冊封されていたと主張している。
- ^ なお、原田(1993)p.9-12にあるように、18世紀半ばの尚穆以後、皮弁冠は十二縫七采玉で玉の総数は266個と、七種の玉を266個ちりばめたものとなった。これは明の皇帝の十二縫五采玉十二、つまり五種類の玉を十二列十二個ずつちりばめた皮弁冠よりも遥かに豪華なものになっており、詳細に見ると明代との変化はあった。
- ^ 豊見山(2004)pp.288-290では、先島諸島などから王府が「朝貢」を受ける、朝貢、支配の多重構造が形成されていたと指摘している。
- ^ 上原(2010)p.313によれば、琉球側は朝鮮出兵に際し兵糧米の供出を行ったことを明に説明しておらず、明側も特に問題視した形跡は無い。
- ^ 真栄平(1985)p.42によれば、福州陥落という情勢下で実施された薩摩藩による八重山諸島の警備兵派遣は、翌年には撤収されたとしている。これは情勢が落ち着いたと判断されたためと推察される。
- ^ 胡(2018)によれば、この時、清側に引き渡された明から下賜された勅書のうち、1629年に作成された崇禎帝が尚豊を琉球国中山王に封じる詔書が旅順博物館に現存している。なお尚豊の冊封は詔書が作成された4年後の1633年に行われている。
- ^ 西里(2010)p.33、渡辺(2012)p.106によれば、1650年に慶賀使を派遣したが、海難事故で行方不明となったとの琉球側の弁明は偽りであり、実際には慶賀使を派遣していなかったと見られている。
- ^ 渡辺(2012)pp.179-186によれば、薩摩側に内密で、琉球が漂着民相手に交易活動を行っていた場合があることが確認されている。
- ^ 夫馬(1999)p.ⅴによれば、例えば1756年に琉球に派遣された冊封使の周煌は、琉球で手に取った四書に訓点が付けられていたのを見つけ、この書物を福州で入手したとの琉球側の嘘を見抜いている
- ^ 伍(2016)p.2によれば、柔遠駅は書経、舜典の「遠来の客を優遇し、朝廷が誠意を持って懐柔の意思を示す」という意味の「柔遠有邇」からその名を採ったとする。
- ^ 深澤(1999)pp.23-28では、「存留通事」がいわば機密費を使っていた実態を紹介している。
- ^ 深澤(2005)p.477によれば、琉球館内の天后宮で1692年に行われた改修費用は、琉球館駐在の琉球王国官吏による支出で賄われた。
- ^ 呂(2004)p.90によれば、1719年の冊封使以降、おそらく1800年の冊封使からは売れ残り商品を琉球王府が買い上げるシステムが確立したとする。
- ^ 鄒、高(1999)p.124、夫馬(1999)p.123によれば、1800年に行われた尚穆の冊封時は、前年に乾隆帝が没したため7回の宴席とも行われなかった。
- ^ 実際問題として約500名の冊封使一行が数カ月間琉球に滞在する間には、どうしてもトラブルは発生してしまう。麻生(2013)pp.417-418には、宝島人(琉球側が名称を詐称していた日本人のこと)との交易を求めたり、遊女を探すために遠出を試み、琉球当局とトラブルになったケースが紹介されている。
- ^ 胡(2002)によれば、清の皇帝から琉球国王に対し、康熙帝から同治帝までの9回(乾隆帝と道光帝は2回、他の皇帝は1回)、扁額を下賜したとしている。
- ^ 鎌田、伊藤(2016)p.12によれば、幕府としては薩摩藩を通じて琉球を間接統治している立場にあり、また琉球自体が日中両属状態にある現状からの判断であるとする。
- ^ 上原(2016)pp.426-434では、島津斉彬による琉球の対外貿易本格解禁政策の影響を受けて、渡唐役人たちがこれまでよりも積極的に清での商品仕入れ、販売に乗り出すようになり、琉球王府の統制が困難となっている事例を紹介している。
- ^ 西里(2005)p.640によれば、銅を福建側に引き渡した後もトラブルは続いた。福建側は銅の代金を支払うとしたが、琉球側は贈与であるとして代金の受け取りを拒否したのである。これは朝貢貿易以外の貿易の開始をもくろむ福建側に対し、琉球側は朝貢貿易以外の貿易を嫌ったためであると考えられる。結局、福建側から押し付けられるように代金の受け取りを行うことになった。
- ^ 伊藤(2016)p.174によれば、清代の冊封において対象者が元服前で元服を待って冊封を行わざるを得なかったケースは、尚泰以外は無かった。
- ^ マルコ(2017)pp.218-219によれば、日本側の主張はお雇い外国人の一人として日本の近代法体系の整備に活躍した、ボアソナードのアドバイスに基づくものとしている。
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