昭和天皇の戦争責任論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/25 23:05 UTC 版)
概要
終戦直後の南原繁は戦争責任について具体的に法律的、政治的、倫理的カテゴリーを区分した上で発言した。山折哲雄によれば、「戦後まもなくは天皇の戦争責任が取り上げられ退位すべきだという意見もあった」という[1]。
21世紀となってから秦郁彦は「戦争責任は法律的、政治的、道徳的、形而上的の区分がある」と発言した[2]。
東京裁判では昭和天皇が大日本帝国憲法の規定によって、大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍の統帥権を有する国家元首、かつ大日本帝国陸海軍の最高指揮官(大元帥。軍の階級としては陸海軍大将)であったため、「侵略戦争」を指導した国際法違反を昭和天皇が犯したとする法的責任があったと指摘を受けた場合に、訴追対象になる可能性があった。
一方、立憲君主制の下に日本国民に対する政治的、道徳的責任、すなわち国民国家に対する多大の人的・物的損害と領土失地などの敗戦責任を何らかの形で取るべきであったのではないかという議論があった。後者については秦によれば、昭和天皇は自らが退位することで責任を取る意思があったが、こちらも実現することはなかった。
その後、同盟国であった第一次世界大戦敗戦後のドイツにおける帝政崩壊とは相違して、占領政策を円滑に行うためのGHQ(SCAP、連合国軍最高司令官総司令部)の意図もあり、敗戦後も皇室は維持されることになった。昭和天皇は1947年(昭和22年)5月3日の大日本帝国憲法改正による日本国憲法施行及び1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約発効による連合国軍占領終了・主権回復以降も、1989年(昭和64年)1月7日に崩御するまで第124代天皇として在位し続けた。
注釈
- ^ BBCでは日本の捕虜収容所で死亡したイギリス兵12,000人を追悼する式典で捕虜経験者の過酷な捕虜生活を報道し、ITNでは日本国内での左翼のデモを報道し、エリザベス2世女王の夫であるエディンバラ公フィリップ王配の大喪の礼の参列で『王族の一族がなぜ・・・天皇は戦犯なのに・・・』と動揺を隠せない夫婦とジェフリー・アーチャーのインタビューを報道している。
出典
- ^ “昭和の日に「国のかたち」を思う”. 産経新聞 (2010年4月29日). 2010年12月19日閲覧。
- ^ 秦郁彦『歪められる日本現代史』、PHP研究所、208頁、2006年
- ^ “「戦前は立憲君主制 天皇に戦争責任はない」のですか?”. しんぶん赤旗 (2006年9月9日). 2010年7月24日閲覧。
- ^ 井上清『天皇の戦争責任』p1-p3、現代評論社
- ^ 『東京朝日新聞』1948年11月4日、UPI通信
- ^ 井上清『天皇の戦争責任』p2-p3
- ^ 相良竜介編集『ドキュメント昭和史6占領時代』平凡社、p17
- ^ 相良竜介編集『ドキュメント昭和史6占領時代』所収「戦争責任と天皇の退位」平凡社、p53
- ^ 歴史科学協議会『歴史評論』2015年8月号(第784)p6-p7、山田朗「戦争責任論の現在と今後の課題 ―戦争の〈記憶〉の継承の観点から― 」[1]
- ^ 井上清『天皇の戦争責任』p9-p15
- ^ 立花書房編『新 警備用語辞典』立花書房、2009年、525頁。
- ^ “「昭和天皇は終戦時、退位すべきだった」菅氏発言”. 産経新聞 (2005年5月9日). 2005年5月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月19日閲覧。
- ^ 田村謙(松山大学教授). “近衛文麿の上奏文(抜粋)”. 外務省編『日本外交年表竝主要文書』下. 2010年12月19日閲覧。
- ^ 宮良(2004)、p.170
- ^ 清水正義(白鷗大学教授). “戦争責任とは何か”. 2010年12月19日閲覧。
- ^ 『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年、「天皇の戦争責任」の項参照。
- ^ たとえば該当書p.27-29
- ^ “英紙「サン」昭和天皇の御真影載せ「血に染まった独裁者」「1万6千人殺害」と描写”. 國民新聞 (1998年). 2006年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月24日閲覧。
- ^ 西鋭夫『國破れてマッカーサー』中央公論新社、1998年。ISBN 4-122-04556-8。
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