寬仁親王
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寬仁親王 | |
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三笠宮家 (寬仁親王家) | |
続柄 | 三笠宮崇仁親王第1男子 |
全名 | 寬仁(ともひと) |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
お印 | 柏 |
出生 |
1946年1月5日 日本・神奈川県三浦郡葉山町 三笠宮御假寓所 |
死去 |
2012年6月6日(66歳没) 日本・東京都千代田区神田駿河台 佐々木研究所附属杏雲堂病院 |
埋葬 | 日本・東京都文京区 豊島岡墓地 |
配偶者 | 親王妃信子(麻生信子) |
子女 |
彬子女王 瑶子女王 |
父親 | 三笠宮崇仁親王 |
母親 | 崇仁親王妃百合子 |
栄典 |
大勲位 |
役職 |
友愛十字会総裁 ありのまま舎総裁 新技術開発財団総裁 恩賜財団済生会総裁 高松宮妃癌研究基金総裁 日英協会名誉総裁 日本ビリヤード協会総裁 日本職業スキー教師協会総裁 中近東文化センター総裁 日本ラグビーフットボール協会名誉総裁 学習院大学応援団最高顧問 他多数 |
三笠宮崇仁親王と同妃百合子の第1男子(3男2女のうち第2子)。明仁(上皇)は従兄、徳仁(第126代天皇)は従甥、麻生太郎(第92代内閣総理大臣)は義兄(妃・信子の兄)にあたる。姉に近衞甯子(甯子内親王)、弟に桂宮宜仁親王と高円宮憲仁親王、妹に千容子(容子内親王)がいる。
生前の住居(寬仁親王邸)は、東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内にあった。没後の2013年(平成25年)7月31日より、旧寬仁親王邸は「三笠宮東邸」(みかさのみやとうてい)と称されている。
- ^ たとえば髙橋の場合、本来は「髙」(はしごだか)表記であっても新聞では『高橋』としている(但し注釈で「はしごだか」などと付け加える)。
- ^ 「寛仁さま 東海からも悼む声=中部」『読売新聞』2012年6月7日中部朝刊31頁参照。
- ^ 「在りし日の御日常 不幸な人々に慈しみ 御霊まいりに明け暮れ」『朝日新聞』昭和26年(1951)5月18日1面
- ^ 1977年(昭和52年)4月1日放送 テレビ朝日「徹子の部屋」
- ^ 三笠宮家の寛仁さま逝去 66歳、ヒゲの殿下 - 日本経済新聞 2012年(平成24年)6月6日
- ^ 三笠宮寛仁さま 喉の軟骨の切除手術へ - 日テレニュース24 2012年(平成24年)2月29日
- ^ 三笠宮寛仁さま、首の患部から2度出血 - 日テレニュース24 2012年(平成24年)6月4日
- ^ 三笠宮寛仁さまの死因は多臓器不全~宮内庁 - 日テレニュース24 2012年(平成24年)6月6日
- ^ 「SIAニュース」115号
- ^ a b c 三笠宮家のご活動 - 宮内庁。
- ^ “寛仁ひげ殿下「不良の魅力」酒もタバコも高校生からやってたよ”. ワイドショー通信簿. J-CAST テレビウォッチ (2012年6月7日). 2012年6月8日閲覧。
- ^ a b c 月刊ラジオパラダイス(三才ブックス)1987年4月号特集「深夜放送20周年ぐらふぃてぃ」34頁より。
- ^ 『ラジオライフ』第2巻第5号、三才ブックス、1981年7月1日、20頁。
- ^ A Font of Commentary Amid Japan’s Taciturn Royals - ニューヨーク・タイムズ 2007年(平成19年)10月20日
- ^ 読売新聞 1981年(昭和56年)11月6日他
- ^ 週刊新潮 2007年(平成19年)4月26日号
- ^ 瑶子女王殿下の記者会見の内容 - 宮内庁オフィシャルサイト 2003年(平成15年)10月23日
- ^ 著書に『悪童殿下 愛して怒って闘って寛仁親王の波瀾万丈』(幻冬舎、2013年)がある
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