上原専禄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 06:20 UTC 版)
人物情報 | |
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生誕 |
1899年5月21日 日本・京都府京都市 |
死没 |
1975年10月28日 (76歳) 日本・京都府 |
出身校 | 東京商科大学、ウィーン大学 |
子供 | 上原淳道(東洋史研究者) |
学問 | |
研究分野 | 歴史学(中世ヨーロッパ史) |
研究機関 | 高岡高等商業学校、東京産業大学(一橋大学) |
生涯
幼少期から学生時代
1899年、京都市西陣にあった日蓮宗檀家の商家に生まれた。小学校3年から松山市大街道商店街の薬種商であった叔父の家に住む。旧制愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)専攻部経済学科に進んだ。1922年(大正11年)、同大学を卒業し、東京商科大学(現・一橋大学)研究科に入学した。大学では三浦新七の下で学んだ。
ウィーン留学から教員としての戦前
その後、ウィーン大学に2年間留学し、アルフォンス・ドプシュ教授のゼミナールで、当時日本ではまだ珍しかった一次史料からの史料批判を行うヨーロッパ中世史研究の研鑽を積んだ。帰国後、1926年(大正15年)高岡高等商業学校(現・富山大学)教授に任じられた[1]。1928年(昭和3年)、東京商科大学教授となった[2]。1940年(昭和15年)、東京商科大学附属商業教員養成所主事、東京商科大学附属商学専門部主事[3]。一方で、横濱専門学校(現神奈川大学)に出講して、その草創期には経済史の講師をつとめた。
戦後、一橋大学大学学長として
1946年(昭和21年)に高瀬荘太郎の後を継ぎ、東京産業大学(東京産業大学は戦時中東京商科大学から名称変更をよぎなくされた。上原就任中に東京商科大学へ名称再変更となる 現・一橋大学)学長に就任。新制一橋大学の設立に指導的役割を果たした。このため一橋大学の新制大学化の核となった「社会科学の総合大学化構想」は別名を「上原構想」ともいわれている。また戦後初の学生公選により選ばれた学長でもある。
上原構想は、社会科学を総合的に扱う社会学部の設立が核となっており、学長退任後の1951年(昭和26年)に、初代一橋大学社会学部長に就任した。この間、小樽商科大学等でも教鞭をとる。また、日本教職員組合の国民教育研究所初代所長、国民文化会議議長、富山大学設置準備委員会委員等も務めた。
1959年(昭和34年)日米安全保障条約改定に反対し、清水幾太郎や家永三郎らとともに安保問題研究会を結成。翌1960年(昭和35年)、一橋大学を突如辞職した。同年10月国民文化会議会長を辞し、1964年(昭和39年)5月国民教育研究所研究会議議長も辞職。
辞職以降
1969年(昭和44年)4月27日の夫人の死を契機に、1971年(昭和46年)6月、息子の上原淳道や弟子達も知らない間に長女(国立音楽大学ピアノ講師)のみを伴い東京を退出し、宇治で「高島宗助」という偽名を使って隠遁生活を送る。大学退職後は日蓮の研究に傾倒する。1975年(昭和50年)10月28日、京都市西京区の京都桂病院で肺ガンと急性心不全によって76歳の生涯を終え、遺骨は長女により西方寺に埋葬されたと報じられた。その死は公表されず、1979年(昭和54年)6月16日死後3年8か月にして朝日新聞が発見し、記事にした。
研究内容・業績
- ^ 高岡高等商業学校『高岡高等商業学校一覧 自大正15年至大正16年』高岡高等商業学校、1926年12月8日、68頁。NDLJP:941179/38
- ^ 東京商科大学『東京商科大学一覧 昭和3年度』丸善、1928年、171頁。NDLJP:1441606/99
- ^ 東京商科大学一覧 昭和17年度
- ^ 「社会学研究科修士論文紹介」『一橋研究』第3号、一橋大学大学院学生会、1957年3月27日、112-116頁、2022年6月8日閲覧。
- ^ 石川操「レックス・サリカ研究の発展」『一橋研究』第2号、一橋大学大学院学生会、1956年3月27日、3-25頁、2022年6月8日閲覧。
- ^ 森本義輝「イギリス経済史研究の一潮流:R.H.トーニーの評価を中心として」『一橋研究』第3号、一橋大学大学院学生会、1957年3月27日、110-111頁、2022年6月8日閲覧。
- 1 上原専禄とは
- 2 上原専禄の概要
- 3 後世に与えた影響
- 4 外部リンク
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