ベルリンの壁 狙撃裁判

ベルリンの壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 02:10 UTC 版)

狙撃裁判

ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一が実現した後に、ベルリンの壁について、国境警備隊による越境者への狙撃及び射殺に対してどのように扱うかは喫緊の課題であった。壁崩壊の翌年1990年には国境警備兵に対する裁判手続きが進められていった。東ドイツの狙撃兵は東ドイツの国内法では訴追は出来ないため、道義的概念は持ち込めるのか、事後に成立した法に基づく訴追は遡及効禁止と齟齬を及ぼすのか、法が正義に反する場合は実定法に対して正義と道義が優先されるのか、射殺命令を執行した狙撃兵と射殺命令を出した上官との罪の上下は…などドイツ国内で様々な議論がなされた。この後にドイツの裁判所はベルリンの壁の死者と射殺命令に関する審理にほぼ15年を費やした[24]:227-230

ドイツ連邦議会は1992年に「ドイツにおけるドイツ社会主義統一党独裁の歴史と帰結の批判的総括」を行うための調査委員会を設置した。そして2年後に社会主義統一党独裁のほぼ全局面を明らかにする15,000ページ余りの調査報告書を公表し、この中で東ドイツで行われた国家犯罪や人権侵害など負の遺産についての真相究明、責任や罪の承認、浄化や和解、補償と賠償、そして裁判などが述べられていた。これらには独裁の犠牲者を悼み、犯行者を処罰することも含まれていた[24]:227-229

かつてナチス時代の暴力犯罪に対して、法が正義に反する場合に実定法よりも正義と道義性が優先されるのか、といった論争があったが、狙撃兵裁判でもその論争は再燃した[24]:231。そして越境する者に対して射殺命令をいつ、誰が発したかも焦点となり、1961年夏のベルリンの壁建設の9日後に社会主義統一党政治局が発砲命令を出したと言われるが[24]:31、それが明確な文書としては残っておらず、当時のブラント西ベルリン市長が東ドイツの国境警備兵に「自分と同じ国の人間を撃つな」と訴えた時に、ウルブリヒト第一書記は「国境を侵す者には、武器を用いてもその行動を慎むように命じなければならない」と語っていた[24]:31-32

その射殺命令およびその実行に関して、東ドイツの最高指導者と政権幹部、国境警備隊幹部、現場の兵士に対して、1990年10月からドイツ再統一後のドイツ連邦共和国の裁判所で裁判が行われ、裁判所は社会主義統一党中央委員会政治局から狙撃兵に至るまで途切れることなく責任の連鎖が存在することは確認した。そしてその際に、社会主義統一党指導部は市民の生命を保護し身体無傷性を守る義務を負っていたとして「民主共和国市民の人格と人権は不可侵である」としたドイツ民主共和国憲法と国際人権協定をその字義どおりに解釈した[24]:233

このドイツ民主共和国の不正を理由として始められた捜査手続きの総数は壁の射殺事件以外も含めて約10万件に達すると見られ、この総数に対しての有罪判決はおよそ133分の1の数であった。この内に両独国境での強行犯罪については総計244件の訴追があり、466人が告発されて385人に判決が下され、110人が無罪で、275人の有罪が確定した[24]:234。刑の量定は連隊司令官、国境警備隊長、政治局員まで地位に順じて重くなった。しかし大半の被告は執行猶予付の判決で、命令権者の20人は執行猶予の付かない自由刑の有罪判決であった。これらの不正行為と見なしたものの捜査と裁判が最終的な処理が終えたのは壁崩壊から16年が過ぎた2005年であった[24]:233

ドイツ社会主義統一党幹部
  • ヴァルター・ウルブリヒト …壁建設時の社会主義統一党第一書記(後に書記長)。1973年死去。
    • 戦後の東ドイツの最高指導者。1971年に引退。ベルリンの壁の構築の提唱者であり、実行者であり、そして最高責任者であった。壁建設後に武器の使用を躊躇わず、射殺命令を出したと言われている。[要出典]壁崩壊時は既に死去していたので、訴追はされなかった。
  • エーリッヒ・ホーネッカー…壁建設時の党書記。1976年より1989年10月まで社会主義統一党書記長。
    • 壁建設の陣頭指揮に当たり、壁を越境しようとする者に対して射殺命令を出したとされて、統一後に49件の殺人罪によって起訴されたが、1993年に刑事裁判が免除され、翌年逃亡先のチリで病死する。
  • ヴィリー・シュトフ…内務相、国防相、閣僚評議会議長(首相)、国家評議会議長(元首)などを歴任。1976年10月から1989年11月まで閣僚評議会議長(首相)。
    • 1991年にベルリンの壁関連の殺人罪で逮捕されたが、翌年8月に健康上の理由で釈放され、最終的に審理停止となる。
  • エーリッヒ・ミールケ…1957年から1989年11月まで国家保安相。
    • 1993年に射殺命令の責任者として起訴され、別件の警官殺害の件で懲役6年の判決であったが、1995年に釈放され、2000年に死去する。
  • ハインツ・ケスラー…空軍司令官、参謀総長、国防次官を経て、1985年から1989年まで国防相。
    • 1993年に懲役7年6ヵ月の有罪判決を受け、1998年に出所した。 2017年に死去。
  • ギュンター・シャボフスキー…壁崩壊時の党広報担当者。社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記(ベルリン支部長)。
    • 1997年8月にベルリンの壁での3人の殺害の件で懲役3年半の判決を受けた。しかしシャボフスキーが無実の人間が殺害されたことに対して責任を認めたことが考慮され収監期間1年ほどで釈放された[128]。その後、保守主義に転向し、共産主義者であった過去に対して批判的になった。2015年に死去。
  • エゴン・クレンツ…壁崩壊時の社会主義統一党書記長。
    • 1999年に懲役6年半の判決を受けた。党幹部としての責任(治安問題担当書記を兼務していた)を問われたが、ベルリンの壁犠牲者には遺憾の意を表している。シュパンダウ刑務所で1999年から2003年まで4年間の収監であり、昼間は刑務所外で働くことができるという半自由刑の扱いとなった。ただし、有罪判決が出た後にヨーロッパ裁判所に抗告し、その際にベルリンの壁の死者は東ドイツ政府の責任ではなく冷戦の犠牲者であると主張した。
  • ギュンター・クライバー…壁崩壊時の社会主義統一党経済専門委員
    • 懲役3年の有罪判決であった。
  • クラウス=ディーター・バウムガーテン…壁崩壊時の国境警備隊隊長
    • 懲役6年半の有罪判決であった。
国境警備隊兵士

壁で越境しようとした市民を射殺したと訴追された警備隊兵士からは、「的を外して撃った」との主張がなされることもあったが、多くは射殺命令を実行したと認定された。しかしその兵士に対して、最終的には、執行猶予付きの有罪判決の場合がほとんどであった[128]。「殺意なき殺人」として処理されている[128]。また1997年のエゴン・クレンツの裁判で、裁判官は「国境警備隊は国境の安全に責任を負っていた。警備兵に下された射殺命令は実際にはイデオロギー上のものであった」と裁定している[129]

1961年8月24日に壁付近で川を泳いで最初に銃の犠牲者となったギュンター・リトフィンの事件では、彼を撃った兵士は1997年に裁判で禁固18カ月の有罪判決であったが執行猶予がついた。「やや軽度の重大事犯」にあたる故殺と見なされた[24]:33

1962年8月17日に壁を越えようとして撃たれ、東側に落下してからしばらく虫の息だが生きていたものの東西両側から救助されず、1時間後にその場で失血死したペーター・フェヒターの事件では、1997年3月に元国境警備兵2人が殺人罪で訴追された。裁判長はどちらが彼を撃ったのか判断できないとして、裁判時には61歳であったロルフ・フリードリッヒに21カ月、エーリッヒ・シュライバーに20カ月、それぞれ執行猶予のついた有罪判決であった。しかし裁判長はフェヒターの失血死について警備兵のどちらにも責任がないとしたが、起こった事実は容認しがたいと明言した。ペーターの父は傷心で精神を病み1968年に亡くなり、母も精神を病み1991年まで生きたが壁崩壊についてはっきり理解することが出来なかった。姉ギーゼラは「弟はドイツからドイツへ行こうとしただけで撃たれた、そして誰も助けようとはしなかった。」と泣いた。後日、ロルフ・フリードリッヒは「本当に申し訳ない。フィヒターに謝罪したい。」と語っていた[130]

1989年2月6日にベルリンの壁で最後に射殺されたクリス・ギュフロイの事件では、1991年9月に国境警備兵4名が告発され、法廷で命令遵守を訴えたが人道に対する罪で、致命傷を与えた銃弾を放ったインゴ・ハインリッヒは3年半の懲役の判決が下りるものの、1994年に減刑されて2年の保護観察となった。同僚のアンドレアス・キューンパストは懲役2年に執行猶予が付いた。当初東ドイツはこの壁で死者が出た事実を否定する方針であったが世界中から非難されて認めざる得なかった。クリスの母カーリン・ギュフロイはシュタージにいつか息子を殺した罪に問われるだろうと言い放ったが、鼻でせせら笑われるだけだったという。この裁判では結局発砲を命じた側は罪に問われなかった[131]

なおこのギュフロイの死去に関して東ドイツ政府は新聞に家族からの死亡広告を出すことを許可し(壁の死者で許可されたケースはそれまで無かった)、葬儀が2月23日に行われ約120人が参列した。それまで葬儀どころか遺体を家族に引き渡すことも、あるいは壁で死んだことも連絡しないケースが多く、壁が崩壊してから壁で射殺されたことを家族が知ったことが多かった。また一緒に越境しようとして国境警備隊に逮捕されたクリスティアン・ガウディアンは裁判で懲役3年を言い渡されたが、西ドイツが身代金を支払い、彼の身柄を引き取った[132]


注釈

  1. ^ 厳密には、ドイツ帝国、ヴァイマル共和政、ナチス・ドイツを通じて正式国名は一貫して「ドイツ国」であった。
  2. ^ NATO(北大西洋条約機構)の基になった条約で、前年1948年3月にイギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクがブリュッセルで条約を結んで相互防衛の行動を約束し、このブリュッセル条約締結国に加えて、アメリカ・カナダ・デンマーク・アイスランド・イタリア・ポルトガル・ノルウエーの各国が相互防衛を規定した条約である。1952年にギリシャとトルコ、1955年には西ドイツが加わった[9]:61-62
  3. ^ 西ドイツはこの事件への抗議の意を込めて、ブランデンブルク門から西に延びる通りを「6月17日通り」と改名した。東側は変わらずウンター・デン・リンデンと呼ばれた。
  4. ^ ダンチヒ(現在のポーランド領グダニスク)は、かつてプロイセン領内にあったがポーランドの海の玄関口であり、第一次世界大戦後にポーランドが独立を回復してドイツとポーランドの狭間となった際はどちらの国にも属さない自由都市ダンチヒとして存在したことを意識したもの。
  5. ^ この情報は当時は伏せられて西側には伝わらず、5年後の1966年8月に『デア・シュピーゲル』が伝えて初めて分かったことであった。
  6. ^ ウルブリヒトがこの時に強気に出たのは事実だが、フルシチョフがその要請に屈したとか、待つように求めたという言説は当時の東西冷戦時代の時代環境を理解すればあり得ない話である。これはベルリンに関する4ヵ国協定が存在する限り、東ドイツは何も出来ず、ソ連は米英仏3ヵ国との緊張関係の中でベルリンと関わっていて、一触即発で戦争状態も想定される状態の中で、むしろ東ドイツの動きを抑える立場であった。主導権は東ドイツが崩壊するまでソ連が握っていた。
  7. ^ キッシンジャーは、この時に別に文書をケネディに提出していた。その文書では、モスクワに対する強硬な意見をキッシンジャーも持っているが、外交を一切無視するようなアチソンの提言を無謀と断じた。そしてベルリン問題に対するケネディのスタンスに対しての警告を誤解の余地の無い内容で表現した。フルシチョフのベルリン自由都市構想(1958年)に対する中途半端さ、自由選挙に基づくドイツ統一を空想的と見なす考え方、アデナウアー首相を毛嫌いしていること、ベルリン問題についての関心不足が大西洋同盟に危機を生み出し、その結果で米国の安全上の利益を害する恐れがあり、西側諸国に深刻な影響を与えることなどを述べて「政策に関する如何なる考察も西側はベルリンで敗北などしていられないという前提から出発しなければならない」「大統領は西ベルリン市民の希望と勇気を維持するために、彼らに我々の信念が確実で実体的な証しを与えるべきだ」とした。しかし結局自分の意見が真剣に取り上げられることはない、と感じてこの年の10月にホワイトハウスのスタッフを辞任した[34]。キッシンジャーがホワイトハウスに国家安全保障担当特別補佐官として戻ってきたのは、それから8年後のニクソン政権になってからである。
  8. ^ 彼がこのレポートを出してすぐに西ベルリン支局から編集者が訪れたが、彼はその根拠を示せぬまま、東ベルリンで息をひそめながら注意深く周囲を観察していた。
  9. ^ アデナウアーは、この日が日曜日であったので、いつものように朝にミサに行っている。
  10. ^ ルシアス・クレイ。1948年に西ベルリンが東側に封鎖された時に、大空輸作戦で西ベルリンを守った功労者である。[75]:159
  11. ^ なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号ケーブルで、一部で言われたような高圧電流を流した剥き出しの金属線ではなかったとされている。
  12. ^ 『ベルリン物語』[17]では155kmとしているが、『ベルリンの壁』[24]では 160kmとしている。
  13. ^ ここで、ケネディはドイツ語で語っている。これはドイツ到着後にRIAS放送ディレクターのロバート・ロックナーとアデナウアー首相の通訳ハインツ・ヴェーバーから教わり、耳で聞いた通りにカードに書き込んでいた。そしてIch bin ein Berlinerも同じカードに書き込んでいた[93]
  14. ^ よくこの言葉は不定冠詞einを入れたので「私はドーナッツ菓子です」と言っているようなものだ、という指摘をして間違ったドイツ語だったという説を唱える向きがあるが、RIAS放送ディレクターとアデナウアー首相の通訳の2人と事前に話し合って、einを抜かすと「私はベルリン生まれである」という意味になって、かえって聴衆を混乱させるとして、この言い方になったという。聞いていた30万人の西ベルリン市民がその意味するところを理解したからこそ熱狂し、その表現に言語学的疑問を感じた者はいなかった[94]
  15. ^ 「ヒトラーもビスマルクもどの皇帝も王も、これほど多くの人々の熱狂に歓迎されたことはない」とワルター・H・ネルソンは著書「ベルリン子たち」で書いている。そしてこの時の迎える側のブラント西ベルリン市長は後に「これほどの歓喜の声に包まれた客人はベルリン史上に例があるまい」と自伝に書いている[16]:190-192
  16. ^ その日の夜、大統領専用機でベルリンを後にアイルランドに向かった際に、機内でケネディはセオドア・ソレンセンに「われわれの人生で今日みたいな日は二度とないだろう」と語った[97]:280
  17. ^ 国際法的な意味での国家承認ではない。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」147P参照
  18. ^ あるいは「ベルナウアー通り」と表記する文献もある。
  19. ^ 壁崩壊後の1997年の「狙撃兵裁判」でリトフィンを射殺した警備兵は禁固1年6カ月の有罪判決を受けたが執行猶予付きであった。
  20. ^ この派手な逃亡劇はその後映画化されている。
  21. ^ 上述の通り、米英仏ソ4か国の軍隊は壁を越えて市内全域のパトロールを認められており、米軍はこの権利を誇示する目的で1日おきに昼間と夜間に4-5台が東ベルリンをパトロールしていた。このパトロールは、規定によりボンネットに国旗を立てていたため、「フラッグ・パトロール」と呼ばれていた[106]
  22. ^ 2009年8月にドイツ政府の委託で壁記念センターと現代史研究センターとが4年がかりで壁の死者について調査した結果を発表した。その発表では、1961年から1989年までにベルリンの壁を乗り越えようとして死亡した者は少なくとも136名に達したとしている[114]:260。2009年11月8日にNHKはニュースで放送している。
  23. ^ 【西ドイツは東ドイツ国民も本来は自国民であるとの考えから政治犯を「買い取って」いたため、東ドイツ国民であれば「壁を越える」という方法を採らなくても「西ドイツに行きたがる政治犯」として東ドイツ当局に逮捕されれば犯罪歴等がない限り、西ドイツに亡命できる可能性はあった。例えば検問所に行き「西に行きたい」と言って当局職員の説得を受け入れず逮捕されるとか、西行きの列車にパスポートなしで乗り込み国境でのパスポート検査で逮捕されるといった方法である。】 といった言説は、東側に《犯罪歴が無い限り》といってもこの行動自体で「逃亡未遂罪」の重大な犯罪に問われ、平均4年の禁固刑に処せられ、この逃亡を幇助した者にはより重い刑罰が科されること[24]:116からすれば、余りにも東ドイツの現実の厳しさを知らない話である。実際に起こったことではなく、政治犯の処遇の過酷さも分からないお粗末な話で、無知な妄言と言わざるを得ない。[要出典]
  24. ^ 【政治犯の一人当たりの買取価格は9万5,847マルク1977年以降。壁崩壊時のレートで約700万円)で、西ドイツは離散家族も含めて25万人を買い取り、計35億マルクを東ドイツに支払った[119]。】という言説は、単純計算で人数に誤りがあり、正確性を欠いている。
  25. ^ 【他にも東欧共産圏への複数回の旅行(許可制)を繰り返して政府を信頼させ西側への旅行許可を得て亡命したものもいるが、富裕層以外には不可能な方法である。また特に若い女性であれば、外国人との結婚により容易に国外への移住が可能であった。】という言説は滑稽な話である。そもそも社会主義国に富裕層は存在せず、党幹部でも簡単に外国へは行けない国であった。国内の旅行さえ不自由な国で外国人との結婚が容易である訳はなく、また結婚できても国外への旅行は申請しても簡単には許可がおりず、壁が東の人間を閉じ込めていたことを少しも理解していない話である。[要出典]
  26. ^ 正式には「ドイツ民主共和国政府及びベルリン参事会間の議定書」と呼ばれ、東西ドイツ間の協定ではない。東側が従来から西ベルリンは西ドイツと別個の政治単位であると主張していたためである。このため西ドイツ政府(アデナウアー政権)はこの通行証協定は東側の主張を認めるものであるとの懸念を隠せなかったが、ブラント市長は人道的措置であることを強調した。実際には、交渉の当事者である西ベルリン市から協定交渉の妥結をボンの西ドイツ政府に伝え、西ドイツ政府が閣議で了承した後にブラント市長宛てに通告してから協定を結ぶものであった[121]
  27. ^ 同一都市内に壁が建設された都市は、このベルリン以外にはメドラロイトだけであった。という言説があるが、正しくはメドラロイトは村であり、都市ではない。

出典

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