バージニア植民地 先住民との関わり

バージニア植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 14:06 UTC 版)

先住民との関わり

初期のジェイムズタウンの入植者らはインディアンからトウモロコシの栽培法を学び飢えを凌いだが、指導者ジョン・スミスは入植者に軍事訓練を行い、インディアンに食糧供出を迫れるほどに軍事力を整えた[3]。タバコの栽培は短期間で土地がやせてしまうため、タバコ生産が増加するにつれ新たな土地を求める膨張主義を生じさせた[5]。インディアンの考えでは、土地は住む人々すべての共有財産であり、譲り渡すのは単に土地を使用する権利であった[6]

インディアンにとっての戦争は、元来は勇敢さを示す儀式的な性格が強かったが、土地に絡む「文明の衝突」によりその攻撃の苛烈さを強めていった[7]。対抗する植民地側もインディアンを敵視するようになり、攻撃は残虐さを増していった[5]

インディアンに対する白人の誤解

バージニア会社の入植者がジェームズタウンに上陸した当時、バージニア植民地南東部のタイドウォーター地域には2万人近くのインディアン部族が居住していた。そしてその中心となっていたのがポウハタン族であり、周囲のアルゴンキン語族系のインディアン部族と連合国家「ポウハタン連邦」を築いていた。

ジョン・スミスら白人入植者(インディアンから見れば侵略者)たちは、このポウハタン族の有力な酋長であるポウハタン酋長を、「ポウハタン連邦すべてを支配する指導者」だと思い込んだ。

スミスらはポウハタン連邦を「帝国」、ポウハタン酋長を「皇帝」と思い込んだまま、これを大英帝国本部に報告した。このため、「インディアンの酋長は部族長である」とイギリス人たちは誤解したまま、以後の植民地侵略行為を推し進めることとなった。白人たちはまず「酋長(白人には大指導者に見えている)を屈服させればすべての部族民はこれに従う」と考え、酋長に対する懐柔、脅迫、交渉を始めた。

しかしアメリカ・インディアンの社会は基本的に合議制民主主義であり、酋長とはその合議の中での「調停者」なのであって、独任制の代表である首長ではない。ポウハタン連邦においても、すべての政治決定は「ロングハウス」という会議場で、「会議の火」を囲んで合議で決定するシステムであり、「部族長」や「指導者」による上意下達のシステムは存在しないのである。

ジェイムズタウンの入植者は当初、インディアンとの友好関係を重視したが、ジョン・スミスが指導者となると、インディアンには強腰でなければ有利な交渉ができないとの考えから、銃の威力をもって威圧しようとした。白人たちはポウハタン酋長を「王」だと勘違いしていたから、すべての要求を彼に対して行った。合議制のなかの調停者を「指導者」と思い込んだ白人たちの要求は、インディアンには理解不能なものだった。

また、インディアンの社会は「大いなる神秘」の下、森羅万象がすべてを共有する平等社会であって、土地はだれでも利用できるものであり、だれのものでもなかった。侵略者たちは酋長(部族の代表ではない)に贈り物をして、土地を彼らから譲り受けたつもりになっていたが、そもそもインディアンは「土地を恒久的に譲る」という白人の考えを理解していない。

当然、理解不能な行為を繰り返す白人入植者と、ポウハタン連邦との関係は次第に険悪な状態になった。

第1次アングロ・ポウハタン戦争(1610年-1614年

そして1609年、対立は戦闘へと発展した。ジョン・スミスはポウハタン族の酋長たちを武力で脅迫し、略奪と虐殺を繰り返したが、その年に爆発事故で負傷し、同年12月には帰国を余儀なくされた。

1610年、バージニア植民地総督に任じられた第3代デラウェア男爵トマス・ウェストは同年夏にジェームズタウンに到着した。インディアン部族との戦闘に備え、デラウェアはアイルランド方式の戦略を導入した。そしてポウハタンの村へと侵入し、家屋を燃やし、食料を略奪し、トウモロコシ畑に火を放って焦土作戦を推し進めた。

ポウハタン酋長としては、入植地が拡がらなければ、金属製品などの入手を続けられるので、連邦の利益になると考えていた。調停者であるポウハタン酋長は友好回復の機会をうかがっていた。そして、そのような機会を作ったのは、ポウハタン酋長の娘、ポカホンタスであった。

ポカホンタスの拉致

1612年、ポカホンタスはポトマック族を訪問中、イギリス船に誘い出されて拉致監禁された。イギリス側は彼女を人質として、捕虜となっていたイギリス人の解放、奪われた武器の引き渡し、トウモロコシによる多額の賠償の支払いを要求した。ポウハタン側が数ヶ月回答を留保している間、ポカホンタスは入植地で宣教師から英語を教え込まれ、洗礼を受けさせられた。

1614年、ポカホンタスは釈放を条件にジョン・ロルフの求婚に応じ、「レベッカ・ロルフ」という英名をつけられた。結婚式には彼女の親族も何人か出席した。ポウハタンも2人の結婚を認め、儀礼用の鹿革の衣服を贈って祝福した。これが契機となり、入植者とポウハタン連合との和平が成立した。

ヴァージニア植民地の出資者たちは、ジェームズタウンにイングランド本国からこれ以上新しい入植者を募るのも、このような冒険的な事業に対する投資家を探すのも困難になったことを悟った。そこでポカホンタスをマーケティングのエサにして、「“新世界”のインディアンが文明に馴らされたため、もはや植民地は安全になった」とイギリス国民を納得させようとした。

1616年、ポカホンタスはロルフとともにイングランドに連れ去られ、ジェームズ1世とその家臣たちに謁見させられた。彼女はそこで「インディアンの姫」と紹介され、イングランドにセンセーションを巻き起こし、新世界アメリカの最初の国際的有名人となった。そうして、より多くの投資と王の関心をヴァージニア植民地にもたらす試みは大成功に終わった。

インディアンの社会に「王族」など存在しないから、ポカホンタスを「姫」とするこのプロパガンダは全くの誤りである。イギリス白人は終始一貫してポウハタンを野蛮な帝国と見なし、そのように扱った。

しかしながら、インディアンの土地で育った彼女にとってロンドンの空気は汚れすぎていて、肺を侵された。ロルフは彼女の健康回復のためバージニアに帰ろうとしたが、病状は急速に悪化し、ポカホンタスは1617年3月に死去した。(死因は天然痘、肺炎、または結核など、資料により異なる。)

ポカホンタスの死を知らされたポウハタン酋長もまた元気を失い、調停者としては弟オペチャンカナウが後を引き継いだ。そして1618年に死去した。オペチャンカナウはかつてスミスに短銃を突き付けられて、トウモロコシ20トンと引き換えに人質にされたことがあるが、それでも寛大に白人入植者に対し、ポウハタン族が住んでいない地域への入植を認めるなど、植民地側に好意を示した。オペチャンカナウはまた、白人のインディアンに対するキリスト教の布教にも協力的な態度をとった。もちろん酋長は支配者ではないので、これはオペチャンカナウ個人の好意にすぎない。

第2次アングロ・ポウハタン戦争(1622年-1642年

ジェームズタウンの虐殺(1622年)

1621年、入植者に「羽根のジャック」として知られていたポウハタン戦士が入植者を殺害し、射殺される事件が発生した。それをきっかけに、ポウハタン族は侵略者である入植者勢力の拡大を軍事的・文化的脅威と理解し、入植地に対する全面攻撃を決断した。1622年3月、ポウハタン連邦はジェームズタウンに奇襲攻撃を仕掛け、バージニア植民地の全入植者の約3分の1にあたる約347人を殺害した。侵略者側は「ポウハタン連合とは戦争あるのみ」という意識で団結し、バージニア会社の幹部もそれに賛成した。

侵略者たちは「オペチャンカナウ酋長が虐殺を指導した」と思い込んだが、これは白人の勝手な思い込みである。インディアンの社会に指導者はいない。

第3次アングロ・ポウハタン戦争(1644年-1646年

1644年、植民地の拡大に抵抗するインディアン部族に対し、バージニア植民地の侵略者は徹底的な虐殺を決定した。戦闘は植民地側の圧倒的な勝利に終わり、タイドウォーター地域のインディアンはほぼ絶滅状態に陥った。平和なインディアンの村々は白人によって略奪強姦殺人放火され、ことごとくが破壊された。インディアンの酋長は「軍事指導者」(そんなものはいない)とみなされ、侵略者によって処刑され、その家族は中米へと奴隷に売り飛ばされた。

1646年に白人の武力脅迫によって和平条約が締結され、植民地の住民はさらに広大な植民地領土をインディアンから奪った。「和平」を口実に、インディアンたちは自分たちの領土から追い出され、ヨーク川以北に住むことを強要された。

ベイコンの反乱

1670年代初頭、バージニア植民地ではタバコ生産の拡大によって増大しつつあった白人の人口が、インディアンにとって脅威となってきた。第2次アングロ・ポウハタン戦争以降、平穏を保っていたインディアンとの関係は、1674年に崩れた。インディアンの居住地域をプランテーションが侵略し、サスケハナ族ポトマック川の上流メリーランド奥地へと移動した。だが白人の自由農民、特に解放民たちは辺境の廉価な土地を求めてその地域のインディアン部族を一掃することを要求した。

1675年、奥地のインディアン部族との間に生じた紛争で白人の死者が出ると、西部の農民たちは報復の軍隊を派遣するようウィリアム・バークリー総督に要求した。しかし総督は敵対的ではないインディアンは白人と同じ国王の臣下として保護するべきだと主張し、宥和政策を提唱した。そしてインディアンを掃討する代わりに砦の建設のために課税しようとした。これに対し植民地評議会議員ナサニエル・ベイコンは義勇兵を募り、インディアン攻撃軍の指揮官に自分を任命するよう総督に要請した。これを拒否されたベイコンは奥地へ兵を進め、平和的なインディアンを殺害した。バージニア植民地のインディアンは、この事件によりほとんど壊滅した。

バークリーはベイコンがかなりの支持者を集めていることを知り、一時は和解的態度をとったが、結局両者の関係は決裂した。ベイコンは1676年、支持者を集めて「人民宣言」を発し、インディアンの一掃と富裕な「寄生者」による支配の終焉を謳った。こうしてバージニア植民地は内乱状態に陥り、ベイコンはジェームズタウンを攻撃して焼き払った。総督は一時避難して本国の援助を要請したが、10月にベイコンは疫病に罹って急死し、統制を失った軍隊は敗走した。

ベイコンの反乱はバージニア植民地の社会に、直接的な変革をもたらさなかった。しかし武装した農民による蜂起は、社会の底辺にあった不満を表面化した。バージニア植民地においてこの反乱が白人の年季契約奉公人に替わってアフリカから拉致連行してきた黒人奴隷を積極的に導入する1つの契機となった。

フレンチ・インディアン戦争

さらなる植民地領土を奪い合って、1754年頃からオハイオ川流域では、イギリスとフランスの対立が顕著になった。フランスは同地域へのイギリスの進出を阻止する構えを見せ、バージニア植民地政府の命を受けたジョージ・ワシントン1754年春から夏にかけて、バージニアの兵士を指揮してデュケーン砦を占領しようとしたが、優勢なフランス軍に敗れた。英仏両陣営はそれぞれイロコイ連邦を始めとするインディアン部族と同盟を組み、彼らに代理戦争をさせた。どちらが勝ってもインディアンにとってすれば、また彼らの領土が白人に強奪される結果となった。








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