バージニア植民地
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独立戦争
印紙法
1764年から1765年にかけて、イギリス本国ではジョージ・グレンヴィル内閣を中心に砂糖法や印紙法などを次々と制定し、植民地への課税を進めた。この動きを受けて各植民地では強い抗議の声が上がり、バージニア植民地議会でも「代表なくして課税なし」をスローガンに反対決議が成立した。イギリスの商人たちからも印紙法の制定には反対の声が上がった。1766年、グレンヴィルに替わってロッキンガム内閣が成立すると、印紙法の実施は不可能であり、事態収拾には同法の撤回もやむをえないとの判断に傾いた。そして1766年3月、印紙法は撤回された。だが同時に、本国議会はイギリス帝国最高の機関であり、植民地を拘束するあらゆる立法権を有することを確認する宣言法が制定された。
タウンゼンド諸法
1766年7月、ロッキンガム内閣に替わってチャタム内閣が成立すると、財務大臣チャールズ・タウンゼンドはガラス、ペンキ、紙、茶などを対象とした新たな植民地関税を提案した。1767年6月、タウンゼンドの提案が実際に法律として制定されると、各植民地では大規模な抗議運動に発展した。マサチューセッツ植民地の代議会は急進派のサミュエル・アダムズが中心となり、各植民地議会に反対決議を求めた。バージニア植民地議会でもアダムズの気運を支持する声が高まり、代議会はタウンゼンド諸法への反対決議を採択した。
第1回大陸会議
1769年5月、バージニア植民地議会は、総督ボトトート男爵により解散された後、ウィリアムズバーグのローレー・タヴァンに集結し革命協議会を結成した。そしてイギリスの政策に大陸的な規模で対抗するために、北アメリカ大陸の各植民地の代表者による大陸会議を開催すべしという意見が植民地指導層の一致した意見となった。第1回大陸会議はジョージア植民地を除く12植民地の代表が1774年9月から10月にかけてフィラデルフィアに集結し、50日間にわたって開催された。バージニア植民地からは、リチャード・ブランド、ベンジャミン・ハリソン、パトリック・ヘンリー、リチャード・ヘンリー・リー、エドモンド・ペンドルトン、ペイトン・ランドルフ、ジョージ・ワシントンの7人が代表として参加した。
独立戦争開戦
バージニア植民地は13植民地の中心に位置する最大の植民地であり、指導層の間には最大の植民地して、本国に対する抵抗運動において中心的役割を果たさなければならないという自負心があった。そしてバージニア植民地の白人社会は有力な指導層の下で政治的なまとまりを保ち、独立戦争を通じて内部秩序に不安がなかった。
バージニア植民地では急進派の勢力が特に強く、北アメリカ大陸において早い段階から抗議運動の中心となった。1775年3月のバージニア植民地では、パトリック・ヘンリーがニューイングランドでの武力衝突を予期して「自由を与えよ。然らずんば死を」と演説した。そして翌4月19日、ボストンでレキシントン・コンコードの戦いが起こり、アメリカ独立戦争が開戦した。総督を頂点とする旧来の植民地政府機構は機能を停止し、バージニア総督ダンモア伯爵は同年6月に安全を求めてイギリスの軍艦に避難した。バージニア議会では総督に替わって公安委員会委員長エドモンド・ペンドルトンが指導的役割を担った。
第2回大陸会議
1775年5月、フィラデルフィアで第2回大陸会議が開催され、戦争を全植民地の戦争として戦うことが決められた。また大陸会議はそのまま戦争を遂行するための常設機関となり、事実上の連邦政府としての役割を果たすことになった。1775年6月、バージニアのジョージ・ワシントンが植民地軍全体の総司令官に任命され、ワシントンは翌7月から指揮をとり始めた。
大陸会議は、バージニア植民地代表のトーマス・ジェファーソンがジョン・ディキンソンとともに起草した「武器をとる理由と必要についての宣言」を採択した。
グレイトブリッジの戦い
1775年12月、イギリスの軍艦に避難していたバージニア総督ダンモア伯爵は兵力を率いてバージニアに戻り、ノーフォークを根城として攻勢をかけた。このときダンモア伯爵は、自分に協力する奴隷には自由を与えると布告した。この布告がバージニア指導層を強く刺激し、イギリスへの反発を強めた。
独立宣言
大陸会議は1777年4月、植民地の貿易をイギリス以外のすべての国に解放することを決めた。そしてその頃までには、いくつかの植民地では、大陸会議で独立が動議された場合には賛成してもよいという訓令が送られた。
バージニア植民地議会では他の植民地に先駆けて、1776年5月15日に独立を宣言した。そして議会は大陸会議の代表に対して、13植民地の独立を提案せよという訓令を自らの代表に与えた。これを受けてリチャード・ヘンリー・リーは翌6月、大陸会議に独立と連合の形成、そして諸外国との同盟を求める決議案を提出した。大陸会議は独立宣言の起草委員にトーマス・ジェファーソンを任命し、ジェファーソンは独立宣言を起草した。
その一方でバージニア植民地議会は6月12日にジョージ・メイソンが起草したバージニア権利章典を採択、そして6月29日にはバージニア邦憲法を採択した。その後7月2日、大陸会議は独立を決議し、7月4日に独立宣言が採択された。独立により、かつての植民地から「ステイト」となった(1789年までの時期については「ステイト」は「邦」、それ以後は「州」とあらわすのが慣習となっている)。
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