馬と黄金の話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:18 UTC 版)
「見性院 (山内一豊室)」の記事における「馬と黄金の話」の解説
一豊夫妻の有名な逸話として、見性院は、『常山紀談』による嫁入りの持参金またはへそくりで夫・一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、主君織田信長の馬揃えの際に信長の目に留まり、それが元で一豊は加増されたといわれる。この逸話は、『藩翰譜』、『鳩巣小説』、『常山紀談』の3つに記載があり、藩翰譜には(見性院が)「鏡の筥の底より、黄金十両取り出しまゐらす」とあり、父からもらった金とされている。馬に関しては「東国第一の馬」と記載されている。一方鳩巣小説では「金子一枚」(十両大判一枚のこと、つまり十両)とあり、母からもらったとされていて、馬売りを「仙台より馬売りに参り候」と表現している。常山紀談では、父からもらった金を差し出したとある。また、どこで馬を手に入れたかについては3つとも安土城下とあり、馬揃えの時期に関しては、天正9年(1581年)2月28日とある。 しかし、この時期には既に一豊は2,000石取りであったため、馬を買うために10両出せるゆとりはあったはずなので、恐らくはもっと早い時期に行われた馬揃えの話で、安土ではなく、当時の知行地である唐国から近い木之本の馬市で、見性院の出した金子で馬を買ったと考えられる。ちなみに当時の10両は約120万から160万または210万といわれる。また、天正大判の金の量を、現在の取引相場に当てはめて換算した場合、1グラム1500円→大判1枚25万円、10枚とすると250万円である。しかし『法秀院殿由緒書』や『長野家由緒書』には金を出したのは母の法秀院であるとされ、また山内家の史料にも見性院が金子を出したという話はない。また、見性院が鏡の筥から金子を出す話については、『藩翰譜』編者の新井白石でさえ疑問視している。これは、元和4年に見性院の画の賛が書かれた折に「打破業鏡」という言葉が用いられており、業鏡とは閻魔の庁で、亡者の生前の善悪の所業を映し出す鏡のことで、それを打ち破るほど仏との縁が深かったとされ、そのため鏡にまつわる伝説ができたとも、元々高知の方言には、女性のへそくりを表す「麻小笥銭」(おこげぜに)という言葉があり、そのような土壌でこういう話ができたともいわれている。その後、見性院の伝記は家制度の道徳である良妻賢母と結びついて行き、第二次世界大戦以前の日本において、賢妻のモデルとして高等女学校の教育に採用された。 他にも、一豊の築城監督の経費を出すために、髪を売ったと言う話もある。しかしこれは、髪を売ったその金額より、夫のために女性にとって大事な髪を売ったことの意味の方が大きい。 馬を買った金は、当時の婚姻の持参金である化粧料ともいわれている。これは妻の私有財産で、離縁の際などに必要とされる経費に使われたりもしたが、見性院はその当時の武士にとって、馬が如何に大事であるかを心得ており、そのために夫に自分の化粧料を使ったのでないかとも思われる。戦国時代の武将夫妻は、共同経営者のような形で家を盛り立てていたため、内助の功という言葉は当てはまりにくいともいえる。内助の功は、夫が外に出、女が家を守るという考えが浸透して後のことであり、戦国時代は男の出世は妻次第とまでいわれていた。この時代の大名を経営者とみた場合、大名夫人は共同経営者であり、一豊夫妻はその意味では正にパートナーシップを確立していた。 大嶌聖子によると、名馬購入譚は江戸時代になってから作られた話であると断定している。歴史の事実としては存在しなかったとし、山内家の伝記に購入譚が記述されていないのは外部で作られたことの証明としている。購入譚の根拠となった史料は見つかっていないのが現状である。 見性院についての同時代史料は極めて少ないからこそ、購入譚が作られていく素地があったといえる。おそらく夫唱婦随の夫婦関係と、その間の見性院の積年の内助を表す象徴的な話として脚色されたものと察せられるのである。 「今古誠画 浮世画類考之内 天正三年之頃(山内一豊)」 小林清親画 明治18年(1885年)一豊に持参金を渡す見性院 馬の手綱を引く見性院の像 山内一豊と妻の像(岐阜県郡上市八幡町柳町一の平)
※この「馬と黄金の話」の解説は、「見性院 (山内一豊室)」の解説の一部です。
「馬と黄金の話」を含む「見性院 (山内一豊室)」の記事については、「見性院 (山内一豊室)」の概要を参照ください。
- 馬と黄金の話のページへのリンク