老人ホーム入所後、活動を再開
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「小林ハル」の記事における「老人ホーム入所後、活動を再開」の解説
あやめ寮入所と同時に芸を捨てたつもりのハルであったが、養女夫婦のもとで身の振り方に悩んでいた頃に温泉旅館で國學院大學の民俗学者に唄を披露したことがきっかけとなり、専門家や文化人を中心に世間の注目を集めていった。やがて新発田市教育委員会がハルの瞽女唄の保存を企画したことをきっかけに、ハルは一度は捨てたはずの芸を再び披露することになる。 1977年(昭和52年)7月、あやめ寮を退所し新潟県北蒲原郡黒川村(現在の胎内市)の特別養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に入所。ここでハルは山田シズ子や、土田ミスをはじめとするかつての弟子たちと再会を果たした。元弟子の中には再びハルに弟子入りし、唄の指導を受ける者もいた。1980年代には、生存する新潟の瞽女のほぼ全員が胎内やすらぎの家で暮らすようになっており、その中には高田市の瞽女組織に属した杉本シズ、難波コトミも含まれていた。それまで長岡と高田の組織に属する瞽女が交流を持ったことはなく、ハルと杉本らが出会い同じ施設で暮らすようになったことは「歴史的な光景」であった。あやめ寮では晴眼者からいじめを受けることもあったが、胎内やすらぎの家ではそのような目に遭うことはなかった。ハルは入所後の暮らしを、「子供のときから難儀なことでも、我慢して耐えてきたから、今こうして面倒を見てもらえるのだって、喜んでいますがね。昔は着るものも着ないで、食べるものも食べないで務めてきたのだから、神さまや仏さまがちゃーんと見ていてくださった。一生の極楽にいるようなものだね。みなさんに、こんなによくしてもらって、ありがたいものだと感謝していますがね」と語っている。 前述の新発田市教育委員会が企画したハルの瞽女唄の保存事業は、1973年(昭和48年)から1975年(昭和50年)にかけて行われた。この時録音された唄は120分テープ40本分に及び、その一部が1977年(昭和52年)2月にNHK-FM放送の番組『朗読』で放送された。さらにこの放送を聴いた声優の山内雅人の誘いを受け、同年11月に東京で開催された「瞽女文学の夕べ」でハルは『明石御前』を披露した。この頃からハルは数多くの取材を受けることになる。「瞽女文学の夕べ」はハルに新たな弟子ももたらした。公演を鑑賞した放送作家の若林一郎から弟子入りを志望する3人の女性を紹介されたのである。最終的には3人のうち竹下玲子だけが残った。その後、1993年(平成5年)には萱森直子が弟子入り。萱森がハルの最後の弟子である。竹下と萱森は後進の指導にも当たっており、ハルの瞽女唄はその死後も後の世代へと継承されている。 1978年(昭和53年)3月25日、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財「瞽女唄」の保持者に認定される。この時ハルは「おらは声が出ねえで、唄も下手。生き残っているからもらっただけ。文化財づらあろば」とコメントしている。同じく3月25日とその前日の24日には、東京の国立劇場で催された「祝福芸の系譜 - 萬歳と春駒」に出演、瞽女萬歳『正月祝い口説』を披露した。下重暁子によるとこの時期のハルは、「かつて瞽女さ、ゴゼンボといって宿もなかった日々があり、辛い目にあわされたのに、無形文化財となってからは、急に『ハルさん、ハルさん』と寄ってくる人々への怒り」を抱えていたという。 1979年(昭和54年)4月29日、黄綬褒章授与。この時ハルは次のようにコメントしている。 黄綬褒章もいただいて、国からごほうびをもらえるなんて、ありがたいことだね。あのまま瞽女にもならず、家におれば、80歳にもなったら年寄りだがね、切れた着物を着せられたって、ありがたがって拝んで着なければならないのに。ここで、こんな親切にしてもらって、みなさまのお蔭だね。家におれば80の婆さんだもの、客人が来れば、隠れてなければならんのに、ここにおれば、どんなお客様がこられても、その前に出してもらってね。私は今、一生の間の嬉しさを全部まとめてもらっているようなもんだね。 — 小林・川野2005、149頁。 ハルの知名度が高まり三条市出身者であることが知られていくにつれ、同市の市民からハルの唄が聴きたいという要望が多く寄せられるようになった。市からの公演の要請にハルは応じた。胎内やすらぎの家の関係者からは95歳と高齢のハルの健康に与える悪影響を懸念する意見も出たが、最終的には看護師を同行させ、日帰りするという条件でハルを送り出すことにした。1995年(平成7年)10月15日、三条市中央公民館で行われた公演には定員の600人を上回る観衆が集まり、補助席を出しても収容しきれず、急遽ロビーに大型モニターが設置された。演目は祭文松坂『阿波徳島十郎兵衛』、『巡礼おつる』、瞽女萬歳『柱立て』、『佐渡おけさ』。ハルはこの2年前に左手首を骨折した影響で三味線を弾くことに不安があり、演奏は弟子の竹下玲子が行ったこの公演について、ハルは「そりゃあ、嬉しかったねぇ、お殿様みたいに大勢に付き添ってもろてのお国入りだもん」「私なんかの唄を大勢の衆が聞きにきてくんなさって、嬉しかったね。だって、三条であんなしてうたわしてもらうのは、初めてのことだすけね」と感想を述べている。公演終了後、ハルは13年ぶりに市内にある母の墓を参った。 1996年(平成8年)、元NHKディレクター川野楠己の依頼により、ハルは瞽女唄の録音に協力している。これは「最高の機械できれいに録音したものをCDにしたい」という川野の願いによるものだった。この時、ハルは手首の状態を気にしながらも自ら三味線を演奏した。川野は録音した唄を自費制作によりCD化(『最後の瞽女 小林ハル 96歳の絶唱』)し、販売した。 1999年(平成11年)10月31日、2か月半前倒しする形で、ハルの100歳を祝う会が新潟市内で開催された。ハルは黒紋付に身を包み、弟子の萱森直子の三味線に乗せて『出雲節・ミカン口説』を披露した。その1か月前の敬老の日、9月13日には当時の内閣総理大臣小渕恵三、新潟県知事、黒川村長らから記念品が贈呈されている。ハルは贈呈の様子を取材に訪れたマスコミの求めに応じ、「『瞽女松坂』のおめでたい唄」を披露した。
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