老人ホーム入所後、活動を再開とは? わかりやすく解説

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老人ホーム入所後、活動を再開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 06:17 UTC 版)

小林ハル」の記事における「老人ホーム入所後、活動を再開」の解説

あやめ寮入所同時に芸を捨てたつもりのハルであったが、養女夫婦のもとで身の振り方悩んでいた頃に温泉旅館國學院大學民俗学者に唄を披露したことがきっかけとなり、専門家文化人中心に世間注目集めていった。やがて新発田市教育委員会ハル瞽女唄保存企画したことをきっかけに、ハル一度捨てたはずの芸を再び披露することになる。 1977年昭和52年7月、あやめ寮を退所新潟県北蒲原郡黒川村現在の胎内市)の特別養護盲老人ホーム胎内やすらぎの家」に入所。ここでハル山田シズ子や、土田ミスはじめとするかつての弟子たち再会果たした。元弟子中には再びハル弟子入りし、唄の指導を受ける者もいた。1980年代には、生存する新潟瞽女のほぼ全員胎内やすらぎの家で暮らすようになっており、その中には高田市瞽女組織属した杉本シズ難波コトミ含まれていた。それまで長岡高田組織属す瞽女交流持ったことはなく、ハル杉本らが出会い同じ施設で暮らすようになったことは「歴史的な光景であった。あやめ寮では晴眼者からいじめを受けることもあったが、胎内やすらぎの家ではそのような目に遭うことはなかった。ハル入所後の暮らしを、「子供のときから難儀なことでも、我慢して耐えてきたから、今こうして面倒を見てもらえるのだって、喜んでいますがね。昔は着るものも着ないで、食べるものも食べない務めてきたのだから、神さま仏さまちゃーん見ていてくださった一生の極楽にいるようなものだねみなさんに、こんなによくしてもらってありがたいものだと感謝していますがね」と語っている。 前述新発田市教育委員会企画したハル瞽女唄保存事業は、1973年昭和48年)から1975年昭和50年)にかけて行われた。この時録音された唄は120テープ40本分に及び、その一部1977年昭和52年2月NHK-FM放送番組朗読』で放送された。さらにこの放送聴いた声優山内雅人誘いを受け、同年11月東京開催された「瞽女文学夕べ」でハルは『明石御前』を披露したこの頃からハル数多く取材を受けることになる。「瞽女文学夕べ」はハル新たな弟子もたらした公演鑑賞した放送作家若林一郎から弟子入り志望する3人の女性を紹介されのである最終的には3人のうち竹下玲子だけが残ったその後1993年平成5年)には萱森直子弟子入り萱森ハル最後弟子である。竹下萱森後進の指導にも当たっており、ハル瞽女唄その死後後の世代へと継承されている。 1978年昭和53年3月25日記録作成等の措置を講ずべき無形文化財瞽女唄」の保持者に認定される。この時ハルは「おらは声が出ねえで、唄も下手。生き残っているからもらっただけ。文化財づらあろば」とコメントしている。同じく3月25日とその前日24日には、東京国立劇場催された「祝福芸の系譜 - 歳と春駒」に出演瞽女歳『正月祝い口説』を披露した下重暁子によるとこの時期ハルは、「かつて瞽女さ、ゴゼンボといって宿もなかった日々があり、辛い目にあわされたのに、無形文化財となってからは、急にハルさんハルさん』と寄ってくる人々への怒り」を抱えていたという。 1979年昭和54年4月29日黄綬褒章授与。この時ハル次のようにコメントしている。 黄綬褒章いただいて、国からごほうびをもらえるなんて、ありがたいことだね。あのまま瞽女にもならず、家におれば、80歳にもなったら年寄りだがね、切れた着物着せられたって、ありがたがって拝んでなければならないのに。ここで、こんな親切にしてもらってみなさまお蔭だね。家におれば80婆さんだもの、客人来れば隠れてなければならんのに、ここにおれば、どんなお客様がこられても、その前に出してもらってね。私は今、一生の間の嬉しさ全部まとめてもらっているようなもんだね。 — 小林・川2005149頁。 ハル知名度高まり三条市出身者であることが知られていくにつれ、同市の市民からハルの唄が聴きたいという要望多く寄せられるようになった。市からの公演要請ハル応じた胎内やすらぎの家関係者からは95歳と高齢ハル健康に与え悪影響懸念する意見出たが、最終的に看護師同行させ、日帰りするという条件ハル送り出すことにした。1995年平成7年10月15日三条市中央公民館行われた公演には定員600人を上回る観衆集まり補助席出して収容しきれず、急遽ロビー大型モニター設置された。演目祭文松坂阿波徳島十郎兵衛』、『巡礼おつる』、瞽女歳『柱立て』、『佐渡おけさ』。ハルはこの2年前に左手首を骨折した影響三味線を弾くことに不安があり、演奏弟子竹下玲子が行ったこの公演について、ハルは「そりゃあ嬉しかったねぇ、お殿様みたいに大勢付き添ってもろてのお国入りだもん」「私なんかの唄を大勢の衆が聞きにきてくんなさって嬉しかったね。だって、三条であんなしてうたわしてもらうのは、初めてのことだすけね」と感想述べている。公演終了後、ハル13年ぶりに市内にある母の墓を参った1996年平成8年)、元NHKディレクター川野己の依頼により、ハル瞽女唄録音協力している。これは「最高の機械きれいに録音したものをCDにしたい」という川野願いよるものだった。この時、ハル手首の状態を気にしながらも自ら三味線演奏した川野録音した唄を自費制作によりCD化(『最後瞽女 小林ハル 96歳の絶唱』)し、販売した1999年平成11年10月31日、2か月前倒しする形で、ハル100歳を祝う会が新潟市内で開催された。ハルは黒紋付に身を包み弟子萱森直子三味線乗せて出雲節ミカン口説』を披露したその1か月前の敬老の日9月13日には当時内閣総理大臣小渕恵三新潟県知事黒川村長らから記念品贈呈されている。ハル贈呈様子取材訪れたマスコミ求め応じ、「『瞽女松坂』のおめでたい唄」を披露した

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