清和源氏足利流 上野氏嫡流とは? わかりやすく解説

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清和源氏足利流 上野氏嫡流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:53 UTC 版)

上野氏」の記事における「清和源氏足利流 上野氏嫡流」の解説

本姓源氏家系河内源氏流れを汲む足利氏庶流足利泰氏の六男、上野義弁に始まる。 義弁の祖父足利義氏三河守補任契機として、同国には足利一門扶植はじまり、三河における足利氏所領のうち、八条院領上野荘の地頭職得て足利一門として重きをなした。義弁の孫上野頼兼は、足利尊氏鎌倉幕府反旗を翻し挙兵した際には従軍している。南北朝の動乱の中、尊氏九州落ち延び頼兼もこれに従軍する1336年建武3年3月には南朝方の肥後菊池氏討って武功挙げた。やがて、尊氏勢力盛り返して京都奪還のために東上すると、石見守護に補任され、西国における北朝幕府勢力拡大南朝勢力追討尽力している。 上野氏佐渡守護等、数ヶ国の守護を歴任したものの、子孫代々世襲されず、京都にあって奉公衆三番頭となる一方御部屋衆御供衆申次衆代々務めるなど、足利将軍家近臣として幕府中枢の業務担った足利義尚六角氏討伐近江出兵上野尚長も将軍に伴い出兵した。 足利義稙1493年明応2年)、足利義澄擁する管領細川政元により追放されたが、1508年永正5年)、再び将軍返り咲き備中固めるため1509年永正6年)、近臣の上野信孝(尚相弟)らを当国下した。 信孝は義稙の命を受けて二階堂政行伊勢貞信らとともに下向し、備中国下道郡下原鬼邑山城入り義稙方の拡大奔走したその後永正年中に信孝は鬼邑山城一門の上野高直を入れ隣接し一連を成す馬入堂山城には一族白神果春迎えて城主となし、また上野頼久をして備中松山城封じたのをはじめ、近郷諸城諸将配して自らは帰洛して再び幕府近侍し、後年足利義晴晩年には足利義輝重臣務め1563年永禄6年)に逝去した。 また、信孝の嫡子上野清信は、足利義昭重臣として、歴史に名を記している。1565年永禄8年)、足利義輝足利義栄奉じる松永久秀三好三人衆三好義継軍勢討たれ実弟足利義昭捕縛され幽閉されたが、義昭義輝側近衆に助けられ脱出し、後に越前朝倉義景のもとへ落ち着いたその際、清信は義昭随行し、義景に上洛挙兵求めたが、義景が一向に動かなかったため、1568年永禄11年)、義昭尾張織田信長らの後ろ盾得て上洛し、朝廷から将軍宣下受けて第15代将軍就任した。清信は義昭随行して上洛し再び幕府近侍した。 なお、上野氏嫡流当主代々将軍から偏諱があり、上野詮兼は足利義詮から、上野満兼は足利義満上野持頼(・上野持歳(もちとし)兄弟)は足利義持から、上野尚長(ひさなが)は足利義尚から、上野澄相(すみすけ)は足利義澄からそれぞれ諱の一字授けられている。 なお、足利氏流である細川氏庶流1つである遠州家土佐守護代家・細川義俊の子宗義の子孫)が「上野氏」とも称していたが、こちらの系統に関して細川氏#遠州家参照のこと。

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