清和源氏足利流 上野氏嫡流
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「上野氏」の記事における「清和源氏足利流 上野氏嫡流」の解説
本姓は源氏。家系は河内源氏の流れを汲む足利氏の庶流。足利泰氏の六男、上野義弁に始まる。 義弁の祖父足利義氏が三河守護補任を契機として、同国には足利一門の扶植がはじまり、三河における足利氏の所領のうち、八条院領上野荘の地頭職を得て足利一門として重きをなした。義弁の孫上野頼兼は、足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻し挙兵した際には従軍している。南北朝の動乱の中、尊氏は九州に落ち延び、頼兼もこれに従軍する。1336年(建武3年)3月には南朝方の肥後の菊池氏を討って武功を挙げた。やがて、尊氏が勢力を盛り返して京都奪還のために東上すると、石見守護に補任され、西国における北朝・幕府勢力の拡大と南朝勢力の追討に尽力している。 上野氏は佐渡守護等、数ヶ国の守護を歴任したものの、子孫代々世襲されず、京都にあって奉公衆三番頭となる一方、御部屋衆、御供衆、申次衆を代々務めるなど、足利将軍家の近臣として幕府の中枢の業務を担った。 足利義尚は六角氏の討伐に近江に出兵、上野尚長も将軍に伴い出兵した。 足利義稙は1493年(明応2年)、足利義澄を擁する管領細川政元により追放されたが、1508年(永正5年)、再び将軍に返り咲き、備中を固めるため1509年(永正6年)、近臣の上野信孝(尚相弟)らを当国へ下した。 信孝は義稙の命を受けて二階堂政行、伊勢貞信らとともに下向し、備中国下道郡下原郷鬼邑山城に入り、義稙方の拡大に奔走した。その後、永正年中に信孝は鬼邑山城に一門の上野高直を入れ、隣接し一連を成す馬入堂山城には一族の白神果春を迎えて城主となし、また上野頼久をして備中松山城に封じたのをはじめ、近郷の諸城に諸将を配して自らは帰洛して再び幕府に近侍し、後年足利義晴、晩年には足利義輝の重臣を務め、1563年(永禄6年)に逝去した。 また、信孝の嫡子上野清信は、足利義昭の重臣として、歴史に名を記している。1565年(永禄8年)、足利義輝が足利義栄を奉じる松永久秀や三好三人衆ら三好義継の軍勢に討たれ、実弟の足利義昭も捕縛され幽閉されたが、義昭は義輝の側近衆に助けられて脱出し、後に越前の朝倉義景のもとへ落ち着いた。その際、清信は義昭に随行し、義景に上洛の挙兵を求めたが、義景が一向に動かなかったため、1568年(永禄11年)、義昭は尾張の織田信長らの後ろ盾を得て上洛し、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。清信は義昭に随行して上洛し再び幕府に近侍した。 なお、上野氏嫡流の当主は代々の将軍から偏諱があり、上野詮兼は足利義詮から、上野満兼は足利義満、上野持頼(・上野持歳(もちとし)兄弟)は足利義持から、上野尚長(ひさなが)は足利義尚から、上野澄相(すみすけ)は足利義澄からそれぞれ諱の一字を授けられている。 なお、足利氏流である細川氏の庶流の1つである遠州家(土佐守護代家・細川義俊の子宗義の子孫)が「上野氏」とも称していたが、こちらの系統に関しては細川氏#遠州家を参照のこと。
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