みんぞく‐じょうか〔‐ジヤウクワ〕【民族浄化】
民族浄化
民族浄化
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報告によると、セルビア人勢力は包囲の間に、サラエヴォのうち彼らの占領下においた地域で民族浄化作戦を展開していたと言われている。 Michael A. Sellsの『The Bridge Betrayed: Religion and Genocide in Bosnia』の中で、民族主義者ではないセルビア人もまた暴力の対象となっていたことを指摘している。 ムスリム人迫害への参加を拒んだセルビア人は殺害された。サラエヴォのセルビア人占領地区において、セルビア人武装勢力の兵員が、市民への蛮行を拒否したセルビア人の当局者を殺害した。武装勢力は、この人物の遺体をみせしめとして1週間にわたって路上に放置した。セルビア人勢力によるサラエヴォでの「選別」作業のさなか、セルビア人の老人リュボ(Ljubo)はムスリム人の友人や隣人らと離されるのを拒んだため、その場で死ぬまで殴られた。 その後数年間に及ぶ1990年代は、ユーゴスラビア紛争におけるセルビア人の戦争責任に関して国際社会が広く共有していた認識を、セルビア人側が否定する否認主義の時代として特徴づけられる時代であった。2000年代に入ると、セルビア人やそのほか外部の著者によって、広く知られているセルビア人による蛮行、たとえばスレブレニツァの虐殺に類するような、非セルビア人、すなわちボシュニャク人(ムスリム人)やクロアチア人の蛮行に焦点を当てる傾向が作り上げられた。たとえば、ユーゴスラビア紛争における、セルビア人市民に対するボシュニャク人やクロアチア人による民族浄化作戦に大きな関心を払うようになった。1992年から1995年までの間に、150,000人のセルビア人がサラエヴォから民族浄化され、うち数千人が殺害されていると主張されている。これらの主張は、2005年にスルプスカ共和国の首相であるペロ・ブケイロヴィッチ(Pero Bukejlović)によって前面に出され、それによると、サラエヴォ包囲のさなかにセルビア人市民に対するジェノサイドが行われたと主張した。そして、その犠牲者の数は、セルビア人勢力によるボシュニャク人大量虐殺であるスレブレニツァの虐殺の犠牲者数を上回るとした。 ボスニア・ヘルツェゴビナ政府によるセルビア人市民への民族浄化がサラエヴォで行われたとする主張は、サラエヴォ市民の間では、民族の別を問わず、きわめて攻撃的な侮辱であったと認識されている。ブケイロヴィッチによる主張に対して、多くの人々が公的な謝罪を求めた。セルビア市民議会の議長であったミルコ・ペヤノヴィッチ(Mirko Pejanović、紛争中はボスニア・ヘルツェゴビナ大統領評議会の一員であり、2007年から2011年までサラエヴォ大学の政治科学部の学部長)は、次のように述べた: いかなる者も、ブケイロヴィッチであれ、政治的な必要性のために真実を捻じ曲げたり、覆い隠したりすることはできない。サラエヴォでは、包囲されていた4年間の間に、カラジッチの軍とセルビア民主党によって、民族の別を問わず、多くのサラエヴォ市民が死亡した。多くの人々が飢餓や寒さを耐え、あるいは死に、また多くの人々が砲撃によって死んだ。紛争中の死者数は12,000人を数え、少なくともそのうち4分の1はセルビア人か、セルビア人の血を引く者であった。よって、われわれは、政府によるセルビア人に対する根絶作戦・ジェノサイドではなく、セルビア民主党とカラジッチの軍によるサラエヴォとサラエヴォ市民、そしてその中に含まれるサラエヴォのセルビア人市民に対する根絶作戦の責任について話す必要がある。 紛争中、セルビア人勢力は、ムスリム人を男性と女性に分け、女性に対して組織的に強姦・性暴行を加えていた。セルビア人勢力の当局者はそれを認識し、また認可している中で、これらの性犯罪行為が行われたとされている。2001年、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷は、公式にドラゴリュブ・クナラツ(Dragoljub Kunarac)、ラドミル・コヴァツ(Radomir Kovac)、ゾラン・ヴコヴィッチ(Zoran Vukovic)を強姦の罪で告訴した。
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民族浄化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 03:50 UTC 版)
セルビア人勢力によるボスニア東部での民族浄化に関して、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の判決では以下のように言及されている: ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか、ボスニア・ヘルツェゴビナの東部ではスルプスカ共和国を中心とするセルビア人勢力が、非セルビア人の市民を攻撃していた。町や村はひとたびセルビア人の手に落ちると、セルビア人勢力 - 軍や警察、準軍事組織、そして時にはセルビア人の村人までもが - おなじパターンに従って行動した。ボシュニャク人の家や住宅は組織的に破壊されるか放火され、ボシュニャク人の市民は追い込まれるか捕らえられ、時に殴打され、殺害された。男性と女性は分離され、男性らの多くは強制収容所に送られた。女性らは各地の抑留地にとどめ置かれ、極めて劣悪な環境の中での生活を強いられ、繰り返し強姦されるなどの虐待を受けた。セルビア人の兵士や警官はこれらの抑留地を訪れ、一人あるいは複数の女性を選んで連れ出し、強姦した。 この事件によって、ボシュニャク人市民が地域から一掃されるとともに、ボシュニャク人の文化など、ボシュニャク人が地域に存在した痕跡はほぼ完全に払拭された。市内のすべてのモスクが破壊された。1992年4月22日、セルビア人勢力はアラジャ・モスク(ボスニア語: Aladža džamija)を爆破した。アラジャ・モスクは、バルカン半島地域では有名な歴史あるモスクであった。また、このほかに、16世紀から17世紀にかけて建造された8つのモスクが破壊されている。1994年1月、セルビア人当局はフォチャを「スルビニェ」(Србиње / Srbinje)と改称した。「スルビニェ」とは、「セルビア人の地」を意味する語であり、「セルビア人」を意味する「Srbi」と、スラヴ語で土地を表す接尾語「-nje」から成っている。
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民族浄化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:24 UTC 版)
「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「民族浄化」の解説
1992年6月、クロアチア人勢力が支配権を獲得しようとして抵抗にあっていたノヴィ・トラヴニク(英語版)へと標的は移っていった。1992年6月18日、クロアチア防衛評議会はノヴィ・トラヴニクのボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍に対して最後通牒を行った。通牒は、域内におけるボスニア政府機関の廃止、クロアチア人政府への忠誠の表明、ボスニア軍のクロアチア人勢力への服従、ボシュニャク人難民の追放などを24時間以内に実施するよう求めるものであった。1992年6月19日、ノヴィ・トラヴニクにて武力衝突が発生した。戦闘は2時間におよび、ボスニア・ヘルツェゴビナ郷土防衛軍の司令部、小学校、郵便局などがクロアチア人の獲得目標とされ攻撃をうけた。攻撃にはヴィテズやブソヴァチャから送り込まれたクロアチア人勢力も参加していた。ノヴィ・トラヴニクの谷あいに住むボシュニャク人たちは虐殺、強姦やその他の虐待の対象となった。 1992年8月、クロアチア人勢力はドゥフリ(Duhri)、ポトクライ(Potkraj)、ラダノヴィチ(Radanovići)、トポレ(Topole)といった村々への攻撃を実行、攻撃ではボシュニャク人民家への放火やボシュニャク人の企業の破壊といった蛮行が行われた。多くのボシュニャク人市民が今後更なる攻撃が加えられることを恐れ、周囲をクロアチア人勢力に囲まれたキセリャク地域から脱出していった。 ICTYのコルディッチおよびチェルケズ事件の判決において、クロアチア人勢力に乗っ取られた中央ボスニアの各自治体(ブソヴァチャ、ノヴィ・トラヴニク、ヴァレシュ(英語版)、キセリャク、ヴィテズ、クレシェヴォ(英語版)、ジェプチェ(英語版)におけるボシュニャク人への迫害は、数多くの証拠により明らかであるとした。更に、これらの自治体ではパターンとして確立されたボシュニャク人に対する迫害が展開されており、クロアチア防衛評議会はこれらの地域のボスニア・ヘルツェゴビナからの分離、そしてクロアチアへの統合を目指してボシュニャク人に対する一連の作戦として迫害を実行したと断じられた。 1992年12月、中央ボスニア・ラシュヴァ渓谷の各自治体ではクロアチア人勢力がほぼ支配権を確立し、一定の抵抗が続いていたのはノヴィ・トラヴニクおよびアフミチ(英語版)のみであった。すなわち、中央ボスニアの大部分はクロアチア人勢力の支配下におかれていた。
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民族浄化
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「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の記事における「民族浄化」の解説
詳細は「民族浄化」を参照 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、各交戦勢力が各々の民族の勢力圏を拡大することを目的としており、「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にするための民族浄化が行われた。 手段としては各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、家屋への侵入・略奪・破壊、資産の強制接収、暴行・拷問・強姦・殺人によって、その地域から退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。 従軍可能年齢にある男性は各地で虐殺や強制収容の対象とされた。また、女性らは強制収容後、組織的な強姦を繰り返され、妊娠後中絶が不可能な段階になってから解放することによって、出産せざるを得ないよう仕向けた。これは家父長的な男権社会の影響が残っていたボスニア・ヘルツェゴビナの村社会では、女性が強姦によって(異民族の子を)妊娠・出産したということは、一族にとって非常な不名誉と見なされるため、これによってコミュニティを破壊させ、効果的に異民族を排除できると考えられたためである。[要出典]
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