スレブレニツァの虐殺
別名:スレブレニツァの悲劇、Masakr u Srebrenici、Масакр у Сребреници
英語:Srebrenica massacre、Srebrenica genocide
1995年7月にボスニア・ヘルツェゴビナ東部の都市スレブレニツァで起こった、スルプスカ共和国軍によるボシュニャク人に対する大量虐殺。
スレブレニツァの虐殺は、1992年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の末期に発生し、第二次世界大戦後にヨーロッパで起こった最大の虐殺とされている。当時、スレブレニツァには約40000人のボシュニャク人がいたとされるが、そのうち約8000人が虐殺されたとされている。
スレブレニツァの虐殺は、2004年に旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)において、ジェノサイドであると正式に認定された。同年、スルプスカ共和国は、初めて虐殺を事実と認めるとともに謝罪した。また、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷では、虐殺を指揮したとされる複数名が裁判にかけられている。当時のセルビア共和国大統領として虐殺に関与したとされるスロボダン・ミロシェヴィッチも訴追されたが、判決を受けないまま2006年に獄死した。
スレブレニツァには当時、PKOの国際連合保護軍(UNPROFOR)に参加したオランダ軍が駐留していたが、虐殺行為を止めることはできなかった。スレブレニツァの虐殺後、オランダはPKOへの参加に慎重な姿勢をとるようになり、2000年の国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNEEE)参加に際しても反対論が強かった。虐殺被害者の遺族は、当時のオランダ政府が保護責任を怠ったとして賠償を求める裁判を起こし、2013年12月にオランダ最高裁判所は、政府の責任を認める判決を下した。これは、PKOに参加した国の政府が責任を問われた初の事例となった。
スレブレニツァの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/24 01:10 UTC 版)
スレブレニツァの虐殺[注釈 1](スレブレニツァのぎゃくさつ、セルビア語: Масакр у Сребреници、ボスニア語: Masakr u Srebrenici、英語: Srebrenica massacre)またはスレブレニツァ・ジェノサイド(Геноцид у Сребреници、Genocid u Srebrenici[2]、英語: Srebrenica genocide; 日本語名は英名による)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで1995年7月に発生した大量虐殺事件である。
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- 1 スレブレニツァの虐殺とは
- 2 スレブレニツァの虐殺の概要
スレブレニツァの虐殺
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「人道に対する罪」の記事における「スレブレニツァの虐殺」の解説
「スレブレニツァの虐殺」、「ユーゴスラビア紛争」、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」、および「旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷」を参照 1991年 - 1999年 旧ユーゴスラビアにおける敵対住民に対する行為。スレブレニツァの虐殺。
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スレブレニツァの虐殺
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「スレブレニツァ」の記事における「スレブレニツァの虐殺」の解説
詳細は「スレブレニツァの虐殺」を参照 1992年から1995年にかけてのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、ムラディッチ率いるセルビア人勢力が「ボシュニャク人の武装グループがセルビア人居住区のブラトゥナッツを攻撃し、多数のセルビア人犠牲者が出たため、セルビア人に対する虐殺への報復を行う」として多くの住人が虐殺された(しかし1999年の国連事務総長のレポートにおいて、この主張を裏付ける証拠はないとされている)。 この地域は国連が保護する安全地帯とされ、オランダ軍で編成された国連保護軍が派遣されていたが、兵力は最大で約700名とセルビア人勢力に対してはほとんど抵抗できず(明石旧ユーゴ問題担当・国際連合事務総長特別代表は旧ユーゴ地域全体で3万人の増派を要請していたが、国連安保理はその約1/4の7,600名の増派しか認めなかった)、あまつさえ一部の兵士が奪われた軍服などの装備が更なる虐殺に利用されてしまう。国連軍内部の足並みの乱れから空爆等の支援も有効に行われず、国連軍の目の前で虐殺が行われることを許す結果となった。 この虐殺に関して国連が1999年にまとめた報告書には、「国連加盟国および国連保護軍の間における情報共有に失敗した。このような意思決定の難しさが国連の平和維持活動の弱点である」と分析している。 スレブレニツァの虐殺は旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷でも取り上げられた。スルプスカ共和国政府はこの事実を認め、謝罪を行った。 2010年3月31日には、セルビア議会も虐殺を認め、非難する決議を採択した。
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