ユーゴスラビア紛争
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ユーゴスラビア紛争(ユーゴスラビアふんそう)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国解体の過程で起こった一連の内戦である。1991年から2001年まで主要な紛争が継続した。
- ^ “Mine kills Serb police”. BBC NEWS. (2000年10月14日). オリジナルの2014年8月10日時点におけるアーカイブ。
- ^ カトリーヌ・サマリ(著)、神野明(訳)『ユーゴ解体を解く』(柘植書房、1994年、ISBN 4-8068-0344-8)
- 1 ユーゴスラビア紛争とは
- 2 ユーゴスラビア紛争の概要
- 3 経緯
- 4 関連作品
- 5 脚注
- 6 外部リンク
ユーゴスラビア紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/03 14:07 UTC 版)
1991年に起こったクロアチアとスロベニアでの紛争によって、ボスニア・ヘルツェゴビナの状況は危機的なものとなった。1992年5月、ユーゴスラビア人民軍(JNA)は砲撃を町に行うようになりボシュニャク勢力とクロアチア系勢力の連合勢力は町の防衛を行っている。JNAの攻撃直後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発する。初期の段階では連合を組んでいたボシュニャク人とクロアチア人であったが、ブゴイノの町は1992年5月から1993年7月までクロアチア系勢力の攻撃下にあった。クロアチア系武装勢力のクロアチア防衛評議会の兵士や部隊等はボシュニャク人に対しヴルバニャ地区での大量虐殺(ジェノサイド)を犯している。毎年7月17日はこの大量虐殺を追悼するメモリアルデーとなっている。後の解放の為の攻撃時、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府勢力はクロアチア系兵士や武装したクロアチア系市民を逮捕している。逮捕者は9つの強制収容所に送られ、ほとんどは町のスタジアムで残酷な処刑が行われた。また多くのクロアチア系市民もボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の支援者などに殺されている。
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ユーゴスラビア紛争
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「サラエボ旅行案内」の記事における「ユーゴスラビア紛争」の解説
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)は、多様性を内包した国家として体制を維持していた。しかし1980年代からの経済危機によって連邦政府への不満が高まり、共和国間の経済格差も明らかとなった。1990年の各共和国の選挙では、連邦からの独立を進める政権が相次いだ。各共和国は、連邦共和国憲法(英語版)に従わずに選挙を行なったため、連邦の法秩序は弱体化し、連邦政府や連邦軍の統合システムも崩壊した。連邦政府は各共和国の政策を抑止できなくなり、民族主義や排外主義による力の行使を拡大させる結果となった。同年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言すると、セルビアとの間で武力衝突が起きてユーゴスラビア紛争が開始された。 ユーゴスラビア連邦に属するボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立を進めたが、1990年11月の選挙でボシュニャク人(ムスリム人)、クロアチア人、セルビア人の民族別政党が対立した。他の共和国と異なり、民族主義者が3つの勢力に分かれていたために国内の混乱が激しかった。1992年に独立をめぐる国民投票が行われる頃には、3つの民族勢力は武装化を進めており、3月からボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が開始された。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは3民族の他にもロマ、アルバニア人、ユダヤ人などさまざまなアイデンティティを持つ人々の多民族国家であり、また民族間結婚が多いためユーゴスラビア人というアイデンティティが都市部に多かった。民族別の政党による対立は分断をもたらし、紛争後にも問題を残す原因となった。
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