栄養改善の達成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 20:59 UTC 版)
1955年(昭和30年)に日本食生活協会が設立され、アメリカから資金援助を受け、キッチンカー(栄養指導車)を使って、栄養士が和洋中華の料理の実演をし指導した。栄養改善運動では様々なおかずを食べる指導が重視され、この結果おかずの比重が増加した。1965年(昭和40年)代ごろ以降は、小麦の消費量が増えていない一方で米のみが減少しており、国立民族学博物館名誉教授の石毛直道は、米の消費が減ったのは小麦製品の消費増というよりもおかずを沢山食べる様になったからと指摘している。またこの頃、都市ガスに加えプロパンガスが普及し始め、ステンレス流し台が発売され、家庭料理の在り方は大きく変化した。いつでも火が自由に使えるようになり、焼き物が手軽になり、強力な火力を必要とする揚げ物、炒め物も簡単に作れるようになった。日本の伝統的な調理である煮物、和え物の比重が低下し、欧米風、中華風の料理が食卓に提供されるようになった。西洋料理や中華料理には肉類が欠かせないが、その普及に象徴的なものが魚肉ソーセージである。もちろん魚肉ソーセージは魚を原料とし肉類ではないが準ずるものとして扱われ、日本の肉食の普及を側面から支え、しだいに実際の肉類の消費が増加し、米と魚と野菜の日本の伝統的食生活に代わり、肉類を使った欧米風・中華風の食生活が普及していった。 もともと日本人は米食悲願民族といわれ、都市部でも上流階級以外は白米を十分食べることができず、農村では水田地帯でさえも米以外の穀物や野菜などを大量に入れて混炊したかて飯を主食とし、畑作地帯では米はわずかしか手に入らず雑穀や芋類を食べる食事であり、加えて戦中戦後の米不足は凄まじく、大半の日本人が米を常食することはできなかった。それは闇市や、米よこせと叫んだ飯米獲得人民大会からも伺える。 その後、昭和40年代(1965年-1974年)初頭になって、ようやく米の自給が達成され名実ともに日本人の主食になった。この頃の日本人の食生活は、フランスの農学者、ジョセフ・クラッツマンをして、タンパク質・脂質・炭水化物のカロリー比率が理想的と言わしめたものであり、このバランスのとれた食生活のおかげで日本人の健康は目を見張る改善を実現し、平均寿命が世界トップクラスになった。また、医療費の増大に困っていたアメリカが、マクガバンレポートで、肉・乳製品・卵といった動物性食品を減らし、精白していない穀物や野菜、果物を多く摂るように勧告したその利用的な食事バランスは、当時の日本人の食生活が達成していた。しかし、日本でも欧米風や中華風のおかずの多い食生活が普及するにしたがい、米の消費量が減少する一方で脂質の消費が増加して、メタボリックシンドロームなど生活習慣病の増加の兆候がみられるようになっていた。 1976年には、厚生省栄養課の初代課長で後に、国立栄養研究所長となった有本邦太郎は、日本人が米国に餌付けされ、私がその手先となったが、もはや退職していて取り返しがつかないと告白し、後悔していた。
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