朝鮮半島経由説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:35 UTC 版)
長江流域に起源がある水稲稲作を伴った大きな人類集団が、紀元前5~6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとする説などである。 2001年当時、佐原真は「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」と述べ有力であった事を示しており、佐藤洋一郎らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としていた。趙法鐘は、弥生早期の稲作は松菊里文化に由来し「水稲農耕、灌漑農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」韓半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は韓半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている。 分子人類学者の崎谷満は、ハプログループO1b2 (Y染色体)に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に水稲をもたらしたとしている。 池橋宏は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5~6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」とまとめている。 従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされてきたが、2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールがみつかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出たまた、水田稲作(水稲)についても渡来時期が5世紀早まり、紀元前10世紀には渡来し、長い時間をかけて浸透していった可能性が指摘されたため、有力視されていた説が揺らぎ、朝鮮半島を経由する説の中にも下記のように時期や集団規模などに違いのある複数の説が登場した。しかし、この年代遡上説に関しては時期が確定してないとの批判や慎重に見る意見もあり、「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」との疑問も呈されている。 広瀬和雄は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている。 藤尾慎一郎は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている。 山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている。 佐藤洋一郎は、水稲の伝来ルートについては、稲のDNA分析による研究もおこなわれている。DNA解析よる「水田稲作」に係る水稲の源郷は「長江下流の江南地方」とされ、その伝達経路は中国から日本への直接ルートとされる。朝鮮半島に存在しない中国固有の水稲が日本で出土しており、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートもあった可能性を示唆している。また、水稲についてはイネの開花時期との関係で少なくとも遼東半島や朝鮮半島の高緯度の北方経由ではないとされる。 更に、研究の進展から、朝鮮半島での水稲耕作が日本よりさかのぼれないこと、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する説もある。
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