日本のユダヤ人コミュニティーの歴史
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「日本のユダヤ人」の記事における「日本のユダヤ人コミュニティーの歴史」の解説
日本で最も初期に知られているユダヤ人は、宋代から来た。本州と四国には5つの商店街があった。1600年までに、移住と同化を通じて、関西にはユダヤ人として識別可能な主なコミュニティが2つしかなかった。 1572年、キリスト教に脱出したスペインのナポリユダヤ人は、マカオのポルトガル人の黒船に長崎に入った。長崎に残っていた人もいたが、そのうちのいくつかはユダヤ教に戻り、家族の名前(特にレビテ)を取り戻した。 1586年には、少なくとも3つの永続的な家族で構成されていた地域社会は、島津軍によって移転された。摂津のユダヤ人は、そのうちのいくつかを(時には130人以上のユダヤ人の人口を集めた)地域社会に吸収し、少数民族は去ったか死んだ。 1848年〜1854年 - 那覇に、ユダヤ系で当時イギリス国籍、プロテスタント宣教師(兼医師)のベッテルハイムとその家族が居住 1859年7月1日 - 日米修好通商条約。横浜の外国人居留地には、幕末の時点で50家族のユダヤ人が住んでいた。レイフル・ショイアーなどの市長も出た 1861年 - ロシア、ポーランド系のポグロム難民が長崎に移住。 1867年、一週間以上かけて、瀬戸ユダヤ人共同体は明治維新後に完全に消滅した。 1896年9月3日 - 長崎に日本初のケヒッラー、シナゴーグが登場する。 1905年 - 日露戦争終結。長崎のコミュニティーが消滅に向かう。 イラク系のコミュニティーが神戸に形成される。1941年頃までに40家族ほど。 1928年 - ユダヤ人民族区(ユダヤ自治州の前身)の設置。 1938年 - ソ連と満州の国境にあるシベリア鉄道・オトポール駅にて(現・ザバイカリスク駅)に、18名のユダヤ人がヨーロッパから逃亡。満州政府がドイツとの関係悪化を恐れ受け入れを拒む為、極東ユダヤ人協会の代表であるアブラハム・カウフマンから相談を受けた樋口季一郎少将が、状況を見かね部下たちと共にユダヤ人たちへ食料や衣類、寒さを凌ぐための燃料、医療の手配、上海へ行くためのルート確保を行った(オトポール事件)。 このルートは「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、1938年から1940年にかけ、このルートで上海へ渡ったユダヤ人は4,000人〜2万人とも言われている。その後の杉原千畝や王替夫が上海日本人租界へとユダヤ難民を救出するルートとなった。この功績により、樋口は1941年6冊目の「ゴールデンブック」にその名前が載っている。 - ユダヤ人難民を救出し満州国の住民とする河豚計画(ふぐけいかく)。 1939年6月 - 駐ベルリン満州国公使館書記官王替夫、難民にビザ発給(1940年5月まで、ユダヤ難民含む合計12,000人以上)。 1940年7月 - リトアニア在カウナス領事館杉原千畝副領事、難民にビザ発給(1940年9月まで、ユダヤ難民含む合計およそ6,000人)。 1941年5月末 - ソビエト経由でポーランド系の難民が神戸に移住。杉原千畝(1939年から1940年まで)の発行したビザによる難民も含まれている。およそ、6,000人のユダヤ人難民を受け入れた。 神戸のコミュニティーは戦時中大半が上海に移動し、1万8000人のコミュニティーが上海に形成され、アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会 American Jewish Joint Distribution Committee, "Joint" (ジョイント) の支援下に生活を送る。中国の新しいコミュニティーとしては、ロシアを経て形成されたハルビン()、上海などのコミュニティーが知られている。 戦後まもなく、基督兄弟団、基督聖協団(医療・緑化運動支援)、キリストの幕屋(手島郁郎が設立。ヘブライ語辞典、ユダヤ教関連図書、歴史書の研究と出版活動も行っている)、聖イエス会(日本滞在支援、ヘブライ大学との協力)などといったキリスト教関係者がユダヤ人社会、イスラエル国との交流の先導を取りはじめる。 1953年 - アメリカ軍関係者を中心の、東京・広尾にコミュニティーが形成される。東京に日本ユダヤ教団が設立される。 1961年 - 東京に 日本イスラエル文化研究会 が設立される。機関紙は「ユダヤ・イスラエル研究」 1979年12月 - ユダヤ人社会・経済・教育、ユダヤ教の包括的入門書として手島佑郎の「ユダヤ人はなぜ優秀か」(サイマル出版会)が刊行される。 1985年 5月 - 石川耕一郎の翻訳作業の成果である「ミシュナ」(セーデル・ネジーキーン、9・アーボート、10・ホーラーヨートの二冊)が出版される。 9月 - 「ベラホート」出版 1986年2月 - 「タアニート、メギラァ、モエード・カタン、ハギガァ」出版。 1987年4月 - 「ペサヒーム」出版。 1993年6月 - 市川裕の翻訳による「モエードの巻 メギラー篇」出版(三貴)。 1994年8月 - 手島佑郎「ユダヤ人のビジネス哲学」(ダイヤモンド社)刊行。 1995年 - 広島県福山市に ホロコースト記念館 が設立される。関西に日本ユダヤ文化研究会(現 神戸・ユダヤ文化研究会(JJSK))が設立される。機関紙は「ナマール」。 1996年 - イスラエル商工会議所設置。 1997年12月 - 「ケリーム篇 ; オホロート篇 ; ネガイーム篇 ; パラー篇 ; トホロート篇 ; ミクヴァオート篇 ; マフシリーン篇 ; ザヴィーム篇 ; テヴール・ヨーム篇 ; ヤダイム篇 ; ウクツィーン篇」 翻訳出版(三貴)。 2000年12月 - 大阪に、民間レベルで経済交流を行う財界人中心の商工会議所設置。 2003年10月 - 石川耕一郎、三好迪の翻訳「ゼライーム」出版(教文館)。 2004年3月 - 倉内ユリ子の翻訳による「シュヴオート篇」出版(ライブ)。
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