大観音と小観音
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 06:21 UTC 版)
二月堂の本尊は大小2体あり、いずれも十一面観音である。1体は内陣中央に安置され、「大観音」(おおがんのん)と呼ばれ、もう1体は厨子に納められ、通常は大観音の手前に安置されているもので、「小観音」(こがんのん)と称される。大観音・小観音ともに絶対の秘仏で、修二会の法要を務める練行衆さえもその姿を見ることは許されない。修二会は旧暦の2月、現在では3月1日から14日までの間、執行されるが、その14日間のうち、上七日(じょうしちにち・前半の7日間)は大観音が本尊とされ、下七日(げしちにち・後半の7日間)は代わって小観音が本尊とされる。大小2体の本尊が存在する理由、修二会の前半と後半で本尊が交替する理由については明らかではない。 大観音は、修二会の作法が行われる内陣の中央、4本の柱で囲まれた高い須弥壇の中央に立つ。修二会の期間中、須弥壇の周囲は椿や南天の造花、壇供(だんぐ、餅)などで荘厳される。須弥壇の内側には4基の宝塔(五重塔)が立ち、そのさらに内側に大観音が立っているはずであるが、厚い帳で囲まれていて、安置状況は全く窺い知れない。一方の小観音は宝形屋根の厨子に納められている。この厨子にはそもそも扉がなく、開扉はありえない。厨子の下部には神社の神輿のような轅(ながえ、担ぎ棒)が付いている。実際、この厨子は御輿(みこし)とも呼ばれており、修二会の上七日の最終日である3月7日の夕方には練行衆によって担ぎ出される。 この小観音の厨子は、通常は大観音の手前に安置されているが、年に2回、2月21日と3月7日に移動する。2月21日は「御輿洗い」と称し、厨子が礼堂に運び出されて、丁寧に拭き清められる。これは3月1日からの修二会の本行には含まれない準備段階の行事である。葺き清められた厨子は、そのあと内陣に戻されるが、その際、大観音の手前ではなく背後に安置される。そして修二会の前半の上七日の間は大観音が法要の本尊となり、小観音は陰に隠れたままである。ところが、3月7日の夕方から深夜にかけて「小観音出御」(しゅつぎょ)と「小観音後入」(ごにゅう)という儀式が執り行われ、にわかに小観音が主役となる。「小観音出御」は3月7日午後6時頃から行われるもので、それまで大観音背面に安置されていた小観音の厨子が、いったん内陣南西の角に仮安置されて準備を整えた後、礼堂に運び出され、香炉、灯明、花などで供養され、厨子の前に置かれた机には壇供が積み上げられる。その後、深夜0時過ぎには「小観音後入」が行われる。これは礼堂に運び込まれた厨子を再び内陣に戻す儀式で、厨子はいったん外陣に入り、外陣の北、西、南を一回りした後、内陣の大観音の正面に安置されて、以後、下七日の本尊は小観音となる。小観音の厨子は寛文7年の二月堂焼失後の作で、最下部には波を表す文様があり、雲に乗った観音の御正体(みしょうたい、銅鏡)が取り付けられている。これは、『二月堂縁起』にいう、生身の観音が海の彼方から難波津へ来迎したという伝説を表すもので、小観音が補陀洛渡来の生身の観音と信じられていたことを意味する。 修二会の前半と後半で本尊が入れ替わることの意味については諸説ある。平安時代後期に大江親通が著した『七大寺巡礼私記』は、東大寺羂索院について述べた部分で修二会について触れ、「毎年2月1日には宝蔵から小厨子を担ぎ出して、本尊の前に置く」という口伝のあったことが記されている。また、仏教図像集である『覚禅抄』巻第四十五は、十一面観音の供養法について述べた部分で、「東大寺二月堂の行法は二七日(14日間)の行であり、第八日目に印蔵の像を奉迎する」と説明している。「印蔵」とは東大寺にあった蔵の一つであり、これらの文献の記述から、小観音は修二会専用の本尊で、平素は宝蔵に納められ、二月堂内には安置されていなかったものが、いつの頃からか二月堂に常時安置されるようになったものと推定される。川村知行は『二月堂衆中練行衆日記』の久安4年(1148年)2月5日の条に「仏後観音御宝殿」という語の見えることを重視し、2月5日の時点で「仏後」、つまり本尊の後に「観音の宝殿」があったということは、小観音が蔵の中ではなく、二月堂内に安置されていたことを意味するもので、小観音が印蔵から二月堂へ移ったのはこの年以前であろうとしている。 前述のように、大観音・小観音ともに絶対の秘仏で、一般公開はおろか、写真も公表されていないが、中世以前には今ほど絶対的な秘仏ではなかったらしく、仏教図像集には大観音・小観音の図像もみられる。小観音の図像は東寺観智院旧蔵の『十一面抄』という図像集にみえる。これは図の脇に「東大寺印蔵像」との注記があることから小観音に間違いないとみられるもので、図像的な特色は、頭上の十一面を上下4段に積み重ねるように表す点である。高野山西南院所蔵の『覚禅抄』「十一面巻」裏書には「二月堂」の注記のある十一面観音の頭部のみの図が2点あり、うち1点には頭上面を上下4段に積み重ねるような描写がみられることから、この図が小観音であり、もう1点の図が大観音を描いたものであると思われる。
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